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人生いろいろ、漬物もいろいろ

  • 人生いろいろ、漬物もいろいろ
小泉さんがこのネタを使うずっと前から、このフレーズで漬物を売っていた社長がいました。
東京の百貨店の食品催事場というのは、これはこれで一つの世界を作っています。
で、この社長は物産展で山形の漬物を売っていました。

漬物メーカーが現地から来て売る場合は、この社長は出店要請がありません。漬物屋がこない場合はこの人の出番です。
で、相当売るわけです、プロなので。当然我々のようなひよっことはラベルが(!)違うのでさまざまなテクを駆使して販売します。

最終日になると「今日でお別れ菅原洋一、また逢う日まで尾崎紀代彦」などと言いながら日が暮れていきます。
そのフレーズが聞こえてくると自分も山形に帰れるんだなぁ、、、などと思うわけです。

日本橋、銀座、新宿、恵比寿、千葉の三越、日本橋、横浜、新宿、柏、大宮、立川、玉川の高島屋、新宿伊勢丹、大井阪急、上野松坂屋、浅草松屋、川口、大宮、多摩、千葉のそごう、、、、。
人生いろいろ、百貨店もいろいろ、、、でした。


2010.01.21:mameichi:コメント(0):[昭和元禄商売絵巻]

初めてのたこ焼きの夜。

  • 初めてのたこ焼きの夜。
7月になると、各町内で夏祭りやお盆過ぎには盆踊りが始まります。
現在ではそういう小さなお祭りでは町内会の夫人部や育成部などが売店を出すことが多いようです。
その昔はどの祭りにもその規模に応じて、何人かの香具師が店を出していました。どんなところにもあったのは綿飴屋で、これは必ず買ってもらうものでした。

歩いて15分ほどの常信庵のお祭りは、小さいながらも結構露店が並んでいました。
そのなかにたこ焼きという暖簾がありました。たこ焼きという言葉自体がはじめてのもので、焼いているものを見るとまるで蛸ではなく、小麦粉で焼いた丸いボール状のものです。不思議なものがあるものだと買ってみました。

なんと、ボールのなかにはてんかすや紅しょうが、青海苔はありましたが、肝心の蛸の切れ端は入っていませんでした。なぜこの丸いのがたこ焼きなのか分かるのは、その後どこかで食べた『蛸の入っている』たこ焼きを食べた時です。

大沼のたこ焼きが始まる、少し前の話だと思います。
2009.08.11:mameichi:コメント(0):[昭和元禄商売絵巻]

志ん生が語る商売。

  • 志ん生が語る商売。
息子の古今亭志ん朝が亡くなって、志ん生という大名跡を継ぐことの出来る人がいなくなった今、逆にまた大きく光彩を放って迫ってくる芸があります。

私が子供の頃、志ん生はまだ健在だったのですがもう実際の活動はやっていなかったため、はじめてちゃんとした落語を聴いたのは中学生の時だったと思います。
NHK第一放送で演芸広場(だったかな?)という月~金の帯番組があり、多分一番最初に志ん生を取り上げたと記憶しています。

「商売となってみると、いろいろありまして、まず今はってぇとデバートとなっておりまして、一軒の呉服屋でいろんなものを売る。昔は商売が別々になっておりまして道具屋は道具屋、下駄屋は下駄屋、、、」
十八番の火焔太鼓、多分昭和30年ごろの録音でしょう。その後その時放送したものと同じ音源のレコードを手に入れました。

そのころはデバートだったんですね。米沢はまだそういうものがなかった。
山形から大沼が出店する前にこの形態に近い商売をやったのは山森佐太郎氏の糸屋でしょう。元々運動具店をやられていたと聞いています。その前は主に武器を扱っていたと読んだ憶えもあります。現在の商工会議所のところにあった洋品店なのですが、2階だか3階にレストランがあったりしてそれなりに楽しい場所でした。
そのあと元細工町、今の焼肉いろりあたりに十字屋が開店しました。記憶があいまいなのですが、いまの板坂お茶屋のところでやっていてその後移ったようにも思います。エスカレーターが付いたのはこの店からではないでしょうか。ここは食堂はなかったが、小さなおもちゃ売り場がありました。ミニカーはばば店とは違ったもの(トミカでないということでしょう。=ヨネザワか?)を置いていました。
その後米沢は昭和45年の大沼開店を皮切りに、ジャスコ、ファミリーデパートの平和通り黄金時代に突入します。
2009.06.24:mameichi:コメント(0):[昭和元禄商売絵巻]
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