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豊川炭鉱馬車鉄道という幻 ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第四回

明治30年10月23日豊川炭鉱起らんとす、という記事が掲載された。そして翌24日には「●米沢小松間の人車鉄道敷設計画」が発表される。そして27日にも「●長井小松間の人車鉄道」という記事が載る。動力が馬から人間に変化しているが、これは予算の関係と思われる。多分馬よりも人の方が経費が安かったのではないだろうか。

 この記事を要約すると、

 炭鉱会社の創立とともに人車鉄道を米沢小松間に敷設して炭山より石炭を運搬する計画がある。それに一般の貨物も運搬し、なおかつ人も乗車させることが望ましい。現在の米沢小松間の一年間の米運搬は一万駄、酒が五千駄もあり、越後から来る貨物や下り荷を合算すれば年間三万駄はあるだろう。また馬車や人力車で往復するものは一日五十人とすれば八ケ月(冬期積雪中を除く)の往来は千二百人となる。現在貨物運送の料金は一駄三十五銭で、人力車は四十銭である。これを合算すれば年間一万五千三百円となる。しかし人車鉄道を敷設すれば一車に三人が乗車するとして往復六人を運ぶことが出来貨物は往復五駄を運搬するとすれば、これに係る人夫はのべ八千人となり、一日四十銭の賃金を払うとすれば年間三千二百円となる。

 ということで、従来の運賃一万五千三百円より三千二百円を差し引けば実に一万二千円の利益が出来る。何と莫大な利益ではないだろうか。この起業費を見積もれば、米沢小松間は多く見積もっても九マイルで、一マイルのレールを敷設するのに二千円かかるとすれば、一万八千円で出来、貨車調製に要する費用を加えても二万円ほどで足りるだろう。

 ああ、このような小資本で一万二千円の収益があるとすれば、役員その他の費用を払っても、年五割以上の配当は確実であろう。ことに鉄道貫通後(福島米沢間)は、これまで最上川を利用して運搬していた塩、石油のようなものも全て鉄道輸送で米沢に送られ、そこから各地方に配送される。そのため交通の便が良くなるに従って貨物運搬や人の往来は多くなるので、米沢小松間人車鉄道の利益は益々多くなることだろう。この鉄道の敷設は地元の幸福を増進する一大機関である。地元有志は振るってこの計画を一日も早く実行されることを願う。

 というもので、27日の記事は長井までの延伸を提案するものだった。ここで注目されるのは、長井から今泉、宮内を経て赤湯に至る現在の山形鉄道のルートが長井、宮内の有志により計画されていたことだ。

豊川炭鉱馬車鉄道という幻 ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第三回

明治30年6月24日、米沢新報という新聞にこのような記事が掲載された。

●小松米沢間の鉄道馬車

奥羽鉄道はまさに来春をもって米沢市に全通せんとして、羽越線一期繰り上げの請願は第十議会に於いて失敗したり。第十一議会を待って更に請願してその素志を貫くを得るとするも、羽越線の全通するに至るは四、五年後なるべし。この間の貨物運送はまた従来のごとく渋滞留せば、西置賜一郡の貨物は充分に奥羽線を利用し能ざるべし。

東置賜郡小松の有志者はつとにここに見るものあり。小松町と米沢市の間に鉄道を敷設し、両郡の貨物はことごとく小松町に蒐集して鉄道馬車により敏活に速捷にし、もって大いに奥羽線を利用せんとの計画にて同町の有力者はことごとく賛成せられ、当市の有志者また大いにこれを賛し、まさに株式会社を設立せんとの運びに至りしをし。好い哉、この挙。

 少々分かりにくいところを補足すると、奥羽鉄道というのは当初青森と福島双方から工事が始められ、福島から奥羽南線、青森のほうを奥羽北線と言い明治38年9月秋田県湯沢で全通している。また羽越線というのは現在の米坂線のことだが、明治30年現在で4、5年後の開業と言っているが、実際全通したのは昭和11年で、40年以上の時が過ぎている。

 つまり西・東置賜郡に鉄道が来るのは当面先なので、米沢まで馬車鉄道という支線を敷設して物流体制を構築しようという計画なのだ。それはあくまで小松町有志の計画であり、タイトル通り「小松から米沢まで」の鉄道馬車計画であった。

 この記事が掲載された後、ひと夏は何もないように新聞にはこのことは書かれてはいない。そして10月23日に突如このような記事が載った。

●豊川炭鉱会社起らんとす

少々長いので要約すると、

薪炭の需要増により燃料が著しく高騰している。それ救う方法は石炭を代替燃料とすることである。しかし置賜地区には有力な炭鉱がなかったのだが、今回地元有力者の発起により豊川炭鉱会社が組織されつつある。

 その豊川炭鉱は先日馬場新八氏(海軍・造船少佐)帰省の折、同鉱石の検分を実施したところ、同所の石炭は品質はさほど良好ではないものの、磐城炭山ぐらいのもので、鉄道用には十分であるとのことだった。そして舘山製糸場(米沢製糸場)で火力の試験を実施したら、現在使用している薪よりも一日当たり3円70銭の利益があり一年にすれば2千余円の利益となることが試算された。

 米沢市内でも酒造家、色染業者は大火力を使用するため、薪炭を石炭に代えれば一年間の利益は莫大である。まして市民もこれを利用すれば全市の大幸福となる。我々は早くこの会社の創立を希望しようではないか。

 大体このような内容だが、豊川炭鉱の詳しい説明はない。この場所は現在の西置賜郡飯豊町高峰だが、当時は豊川村なので、豊川炭鉱という名称になったのだろう。

豊川炭鉱馬車鉄道という幻 ~米沢に鉄道馬車が走っていた~  第二回

そもそも鉄道馬車とはどういった乗り物なのか?何人かのお客様に尋ねられたので、説明したいと思う。簡単にいえば馬が引く馬車がレールの上を走る乗り物だ。ではなぜわざわざ馬車がレールの上を走るのか、という疑問が湧いてくる。

それは当時の道路事情に問題がある。つまり馬車がするすると走れる状態のよい道路は、そうなかった。そのため道路上に線路を敷いて安定した運行を図るために鉄道を道路上に敷設したのだ。道路の下には枕木が埋まっており、それは現在の路面電車も同じ構造で走っている。

 鉄道馬車の起源は諸説ある。当初はイギリスの炭鉱で運炭用として用いられたが、本格的な営業用の鉄道としてはアメリカのジェームス・ステファソンにより1832年に開業したニューヨーク・アンド・ハーレム鉄道が最初とされる。その後各国に広がり1870年にロンドン、1873年にパリに登場した。このようにして市内を結ぶ公共交通機関として馬車鉄道は急激に普及した。たとえばアメリカでは1870年代にはほとんどの都市に馬車鉄道があり、事業者数約700、軌道延長約1万3千キロ、車両数約3万2千両に達した。

 わが国ではパリに遅れること9年、明治15年東京に東京馬車鉄道が開業した。浅草新橋間でその後品川馬車鉄道を買収、品川まで延長して営

業、しっかり黒字経営であり配当もしていた。その後京都に市内電車が開通(京都電気鉄道・明治28年、七条停車場ー下油掛間)という動きがあり、馬の糞尿問題などを考慮、明治36年に東京馬車鉄道を東京電車鉄道に改称、8月より東京でも電車運転が開始された。そして東京の馬車鉄道は終了した。

但し地方中小都市ではこれから馬車鉄道を導入するところも多く、大正元年全国に48社が犇めきあっていたころがピークとなる。

本題の豊川炭鉱馬車鉄道が計画されたのは市立図書館に残る米澤新聞の記事から明治30年ということが分かる。奥羽南線が福島から米沢に到達するのが明治32年だから、その路線が来ることを前提としてそれに間に合わせるように準備に入ったのだろう。

では、どのような意図でこの鉄道が計画されたのかは、次号をお楽しみに。

豊川炭鉱馬車鉄道という幻 ~米沢に鉄道馬車が走っていた~   第一回

今から40年以上前の話だ。ある冬のこと私は山交のバスに乗って丸の内日活の所で降りた。目的は南堀端にある図書館に行くためだ。

 その図書館は城下町米沢には似つかわしくないギリシャ様式の神殿風のファザードで、正面には桜井佑一のレリーフが掲げられ、それはそれは眩しかった。昭和29年に建てられたものだが、右の写真には「繊維館」という説明が付いてるので、図書館として建設されたのは奥の方だけかもしれない。

昭和50年には現在の置賜総合文化センターに移転しているので、僅か20年余りでお役御免となったのも奇異な感じがする。こんなに立派なものを造ったのに。

 それはとも角、地元の歴史に興味のあった小学3年生は、増補訂正米沢大年表(再販 中村忠雄編 昭和40年12月1日発行)から非常に興味深い一行を発見する。それは、

 明治三十二、立町郵便局前を起点とし(当時の局舎は現在場所の西方)小松、赤湯に至る馬車鉄道開通、二ヶ年にして廃止。

という記述だ。米沢にも鉄道馬車が走っていたのだなあということが心に何となく記憶された。

 その後は一時鉄道ファンでもあったため、いろいろな資料にもあたってみたのだが、全国の鉄道がまとめられた資料にはどこにも載っておらず、その鉄道の行方は要として知れなかった。

 店を始める前だから、今から9年ほど前のことだろう。小学校の時に目撃した年表の記述が急に気になり始めた。あれは本当に書いてあったのだろうか。もしかしたら自分の思い違いとか、夢ではなかったのだろうか。相当記憶もあいまいになっていたのだ。

 久しぶりに図書館に向かい、年表を確かめると、間違いなく前記の記述が確認できた。それが書いてある前のページにもう一つ大切な記述が発見された。

 明治三十二、一、一一

 豊川炭鉱馬車鉄道株式会社創立、

取締役 蔵田国治、高野義雄等。

会社の名前が判明した。豊川炭鉱って一体どこにあった炭鉱なのだろう。立町から小松、赤湯を結んでいたと書いてあるのに豊川って一体どこ?そして蔵田国治、高野義雄は何者なのだろう。疑問は次々に浮かんでは消えていく。

 よし、もう少し性根を据えて調べてみよう。40年ぶりの図書館通いが始まった。そして、調べれば調べるほど疑問は深まるばかりであった。  

葵月のレコード 坂上暁生の巻 

  • 葵月のレコード 坂上暁生の巻 

ジャンプブルースというとっても狭い領域の音楽があった。それは1940年代アメリカの黒人が作ったもので、ジャズとブルースの間をいく、そう、初期のロックンロールだったのかもしれない。有名なのはワイノニー・ハリス、ロイ・ブラウン、アイヴォリー・ジョー・ハンター、エイモス・ミルバーン、ルイ・ジョーダン、エディ・クリーンヘッド・ ビンソンなどだが、知る人ぞ知るで見事に名前が残らなかった。

そんな音楽をやってみたいと思っていた俺はブルースのライブに足を運び友人を作り、最初に出来たバンドが「オールド・ディックス」。割と早くそれが潰れて「コールド・スェッツ」と云うバンドに拾われる。そこが「パナマ・ナイト・クラブ」と名を変えその間自己のバンド「スイート・ナイツ・トウキョウ」というバンドをやっていたころだと思う。

オールド・ディックスで一緒にテナーサックスを吹いていた佐藤尚行(後クールスへ)が、横浜のバンドに手伝いに行こうと声をかけてくれたのだ。そのバンドはチャーリー宮毛バンドと云い、チャーリーは奈良生まれで漫才唄子啓助の鳳啓助の弟子だと名乗った。その劇団で芝居をしていたらしく、関西のその筋の名刺をいっぱいファイルしており、それを見せてくれた時の印象は強烈だった。

その時ピアノで来ていたのが坂上暁生で、横浜の音楽シーンではいい顔だったようだ。確か山本リンダの録音に入っていたし、クールスなどにも手伝いに行っていたからだ。その後彼とは「楽団・魅惑の羽衣」を結成、それはそれは青春の日々だった。その後社会人になり世はバブル時代、毎日毎日楽しいことばかりだったが私は息切れを起こし田舎に引っ込んだ、また東京に出ることを期して。だが結局高畠の会社に就職、その後珈琲屋になったのはご存じの通りだが、坂上暁生は92年に急死を遂げる。その後彼の父母との付き合いが始まり程なくしてお母さんが亡くなり、今はお父さんとの連絡もとれなくなってしまった。

このCDには入っていないが、6月10日にライブをやるダイナマイトミキもこの楽団出身だ。その後ベースの中川清が亡くなり毎年追悼ライブが開催されるため、団員との交流は途切れ途切れだが続いている。

彼が何故あの時命を絶ったのかは分からないが、あのブギウギピアノを初めて聞いた時はほんとに驚いた。日本にもこんなピアノを弾ける奴がいるなんて、と。今年は27回忌ということになる。そうだ、新潟に墓参りに、彼に会いに行こう。

2018.06.12:mameichi:コメント(1):[嗚呼うましコーヒー]