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いなかの白兎(4) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(4) 葉山伝説異聞

 白狐が白兎に向かって「肌身離さず抱えている賽銭箱は何?」と詰問する。作者の驢馬さんが葉山神社を訊ねた際に、賽銭箱を抱えた兎の狛犬が立っていることに驚き、金に執着する兎を登場させることにつながった、と「あとがき」に書いてあります。また後の手紙には「地元の人にとってはとても大事で、神聖な兎に対してこのような役回りをさせてよかったか、との不安が・・・」とありました。

 

 そこで狛兎を調べてみると葉山神社の狛兎は、兎年の記念事業の一つとして平成12年に設置されたとのことですが、賽銭箱に係る経緯は確認することができませんでした。さらに調べてみると、「月読命」を祭神とする月山神社には、「中の宮」の前に兎の像が置かれていて、しかも賽銭箱を抱いていることがわかりました。

 

 葉山神社と月山神社の狛兎が存置されている場所は、遥拝殿と中の宮の前である。とすれば、本宮に参拝できない人々の思いを、浄財と共に祭神に届けてあげたいとの意味が込められていると考えてみてはどうだろうか。稲荷神社の狛狐のように、祭神の使いとされる動物が神殿の前に存置されている例は少なくないと思われますが、それらが賽銭箱を抱いているものかどうか、これから気を付けて見たいものだ。

 

 さて、驢馬さんが気になった賽銭箱は、葉山神社と月山神社との関係に気づかせることになりましたが、両社にはさらにふか~い関係があるようです。それは次回のお楽しみに。

 

 

 月山神社の狛兎についてはこちらを参考にし、写真も使わせてもらいました。

→ 出羽三山 月山神社本宮の神兎(山形県) | 神兎研究会 (shintoken.jp)

いなかの白兎(5) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(5) 葉山伝説異聞

 葉山神社と月山神社の関係は白兎の存在だけでなく、地勢的な環境でも極似したものがあるようです。前回紹介した神兎研究会の記事を上の写真と共にご覧ください。

//美しい風景が周りに広がりました。阿弥陀如来が祀られていたため「弥陀ヶ原」と呼ばれます。高原に特徴的な「池塘(ちとう)」という池が点在しており、神が田植えをしたようなので「御田ヶ原」とも。高山特有の天国のような場所です。極楽浄土。//

 

 一方、葉山山頂についても同じような記述がされています。「いなかの白兎(2)」の一部を再掲します。

//この仏像は、閻浮檀金(砂金でできた仏像)の薬師如来でした。この仏像を捧げて、白狐と白兎に導かれて西山に登り、平坦な土地(今の葉山平)と農園(御田代)があったので、そこにお社を建てて祀ったといわれています。//

 

 さらに「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年)には「御田代の周辺」と題して、次の説明が書かれています。

//神社のすぐ西北に湿原があります。直径100m程の小さな湿原ですが、大鮎貝川他の水源です。昔から里の田植えが終わると苗を背負って登り、この湿原を田に見立てて田植えをし神様の加護を願ったものでした。//

 

 

 同じような自然環境が、神なるものへの類似した尊崇の念を生むことは当然有り得ることであろう。けれども当時の三山信仰の位置づけを考えれば、月山神社と同じような環境にあることは、葉山への畏敬の念と共に地域の誇りとして受け継がれていくことも大いに有り得ることではないだろうか。

写真展素敵でした!

4月27日

 私自身、2021年8月以来の来場です。まずは長井線全通100周年おめでとう!!。今回めったに入れない駅の裏側を見ることができて本当にうれしい限り!。そしてレアな品々も目にできてホレボレです。これからもこの駅舎が永くあり続けますように。

 

4月27日

 初フラワー長井線、広田泉さん写真展開催、ありがとうございます。(Aya)

 

4月29日

 やまぞー、さちこ、さなえの3人で来ました。写真展素敵でした!。 3人のおじさま達の案内でとっても楽しく見られました。ありがとうございました。

 

2023.06.11:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

いなかの白兎(6) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(6) 葉山伝説異聞

 さて5貢では「教義の話」や「神仏習合」の話題が出てきますので、葉山神社の来歴についてまとめておきたいと思います。先日、葉山神社の嶽本宮司に葉山神社に伝わる歴史を教えてもらいました。それによると恵法律師が池から仏像を拾い上げる手伝いをした人は、付近の横源太という人であること。恵法律師が仏像の安置場所について、西山にあった光明寺の宥光法印に相談したこと。恵法律師は宥光法印の説に従い、葉山山頂の景観地を選んで羽黒権現(祭神:保食命)を建立。同時に荒廃著しかった月山権現の御堂も再建したという。恵法律師はその後、葉山のふもとに庵を編んで余生を送り、医王山龍善院と称した。現在の葉山神社宮司の嶽本家の始祖である。(月山権現は恵法律師が山頂に行ったときにはすでに建てられていたことになる。)

 

 光明寺は、天慶2年(939年)玄明法印が初めて開いた寺といわれています。恵法律師が仏像を発見する約450年前のことです。神仏習合(神仏混淆)の時代は葉山の月山大権現の別当を勤め、月山修験大蔵院ともいわれていました。明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されると羽黒大権現と月山大権現が「葉山神社」として統一され、羽黒大権現の龍善院が神主となり、以後代々葉山神社を継承することとなった。一方、大蔵院は宥玄の時代に真言宗醍醐派のお寺となり、月光山光明寺大蔵院と改められたといいます。(「ふるさとめぐり致芳(平成9年:致芳地区文化振興会編)」の「光明寺跡」より。)

 

 そして6貢では狐が神から託された使命が明らかになります。「僧を無事に送り出せ、僧に何事があったら置賜全体に罰が当たりかねない。」との言葉は、当時の葉山神社の郡内での信仰の強さを表すものかもしれません。そしてその言葉に従うように、地元では明徳4年以来21年ごとに葉山宮のお建て替えが行われてきたのでした。

 

 

 

【おらだの会】 一部の資料では、神仏分離令において葉山宮に合祀された月山宮を復活させて、葉山宮と月山宮の二つを祀ることになり、立て替えられた社を葉山宮とよんでいる、と記述されています。月山権現が最初に建てられた時期や復活した時期など、まだまだ不確かな点が多く残っていますことをご了承ください。

 

いなかの白兎(7) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(7) 葉山伝説異聞

 さて、同じように作物や食物の神に仕えていた白兎と白狐なのに、なぜ630年にもわたって確執を繰り返したのであろうか。それは、日本書記の時代にまでさかのぼるのかもしれない。以下は日本書記の「保食神との対面」の概要である。

 

//天照大神から保食神に会うよう命じられた月読命は、地上に降りて保食神のもとを訪問した。これを歓迎しようと、保食神は口から食べ物を出して、月読命を迎えた。これを見た月読命は「なんと穢らわしい!」と怒って、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体から、牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となる。

 この月読命の所業を知った天照大神は、「汝悪しき神なり!顔も見たくない!」と怒り、太陽と月は半日ごとに現れるようになった。これが昼と夜の起源である。//

 

 「いなの白兎」の最後のページには、白狐が農産の神として一生懸命働いている様子が描かれているが、その姿はまさしく日本書記に出て来る保食神そのもののように思えて来る。また月読命と天照大神が衝突し反目し合う関係になったとされているが、生命という点からいえば相補うものと考えられるのではないだろうか。太陽と月(夜)の環の中で保食神による生命が育まれることを象徴するものではないだろうか。白兎の「豊作でも不作でももうけてやる」とのセリフは、壮大な生命の連なりを陰で支えようとする意志を表現しているものかもしれない。そう考えると、この作品の壮大さに改めて気づかされ、驚かされるのである。

 

 

【おらだの会】 驢馬さんの「いなの白兎」を読みながら、日本書記までたどり着きました。が、最初に浮かんだ二つの疑問、何故白兎が地名として残ったのか、何故この地に砂金でできた如来像があったのか、は謎のままです。そんなことも含めながら、次回をもっていよいよ最終回としたいと思います。もうしばらくのお付き合いをよろしくお願いします。

 

日本書記」の記事はこちらを参考にしました。

→ 月読命(つくよみのみこと)|三貴神(三貴子) | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼 (spiritualjapan.net)