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長井線写真コンテスト

  • 長井線写真コンテスト

 「大切な人への応援」をテーマにした長井線写真コンテストが開催中である。主催が高校生マーケティングプロジェクトで、2月3日から25日までの応募期間となっている。

 

 同プロジェクトは、事務局となっている山形県置賜総合支庁のHPによると、高校生と地域とのつながりを創出すると共に地域の魅力や価値を発信していくための取組みとして実践するもので、今年度は長井線の新たな客層開拓をテーマに実施するとのことである。

 

 大人、高校生、子どもの3部門があり、賞品もラーメン無料クーポンやもっちぃグッズの詰合せなどユニークなものとなっている。長井線を被写体として。大切な人に向けてどんな応援メッセージが表現されるのだろうか。楽しみにしたいと思う。

2024.02.10:orada3:コメント(0):[イベント情報]

「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

  • 「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

 大正から平成まで歌をとおして辿って来た。最後に白鷹町の荒砥中学校卒業生(荒十会)の同窓会誌に「集団就職列車に同行して」と題する投稿が掲載されていたので紹介したい。「集団就職」という言葉自体が消え去ろうとする現代にあって、社会の大きなうねりの中で、生徒たちと寄り添い続けた教師の姿を伝えたいと思うからである。

 

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 私は3学年の副担任として就職係を担当することになった。当時の卒業生の進路は進学、就職、自家自営がそれぞれ約3分の1くらいの割合であった。就職希望者には相談表に記入してもらい、適性検査なども実施していた。職業安定所から来たパンフレットを廊下に張り出し、それから選んでもらい、職業安定所の職員が来校し、個人面接をして決めていた。

 

 集団就職が始まったのは昭和27年(1952年)、28年(1953年)頃からで、就職列車が出るのは3月29日から30日頃だった。午前7時頃、長井駅に西置賜安定所管内の卒業生が集まり、赤湯へ向かった。長井駅ではものすごい人混みで、各校ごと校歌を歌い、長井中学などは吹奏楽を演奏して激励し送り出した。それぞれの学校の就職係が付き添い、私も担当として同行した。

 

 夜行で上野駅に朝5時ごろ到着する。上野駅には管轄の安定所ごとに幟を立てて出迎えた。駅の近くの広場で引渡しが行われたが、何といってもまだ15歳。引き取られていく生徒を見るのは辛く、もごさい(可哀そうな)ものだった。その後私たち就職係は、自校生徒の就職先を訪問した。1週間くらいはかかったと思う。中には、「すぐに帰りたい」と言い出す者もいた。住宅の一部に看板を掛けただけのような規模の小さい縫製会社などがいっぱいあった。求人票で見て考えていたイメージと違うということもあったと思う。

 

 S君は食糧組合に入ったかと思う。彼はまだまだ子供っぽさが残っており、果たして務まるかなと心配した。しかしコメの配達の仕事をして、得意先から大変めんご(可愛)がられて駄賃などをよくもらったのだという。そして米屋さんの養子に迎えられ、大変成功したと聞く。関東での同級会に私も呼ばれて出席した時、立派な社長の風格で、よく我慢して頑張ったんだなぁと思ったものだ。

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 これを読んで、中学時代の恩師の顔を想い出した。同級会で教え子の現況報告をニコニコしながら聞いてくれたものだった。先生が亡くなったとき、先生に一番叱られた友達が弔辞を読んだ。最後の「先生ありがとう」の言葉は泣き声だった。

 仰げば尊しわが師の恩。互いに睦し日頃の恩、別るる後にもやよ忘るな。「ああ上野駅」から「仰げば尊し」に漂着してしまったが、それぞれの心の故郷の中には、恩師と友との想い出があるのだと思う。

 

 

【おらだの会】写真は、荒砥中学校卒業生(荒十会)同窓会記念誌から転載。

 

2024.02.07:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

「ふるさと」から「ああ上野駅」へ

  • 「ふるさと」から「ああ上野駅」へ

 「ふるさと」から50年後の1964年(昭和39年)に、「ああ上野駅」が発表された。「サライ」の約30年前である。この時代は明治期から続く地方からの人口流出の流れが、「就職列車」という形で、国家的な掛け声のもとに進められた時代である。この歌には当時の社会情勢が強く反映されていると思う。

 

 この歌では、ふるさとに残る父母とは、「休みになったら畑仕事を手伝い、もういいと言うまで肩をもんでやるからな」という密接な関係が残っている。そして、「お店の仕事は辛いけど胸にゃデッカイ夢がある」という具体的な夢が表現されている。それは、「ふるさと」では明確に意識されずに、「サライ」では消えてしまっているものである。国民が共通して持てるような“夢”がなくなったことを示すものであろうか。

 

 ドキュメンタリー番組などでは、集団就職の辛い別れの様子が流れるが、歌い手の井沢八郎の声は明るく張りがあり、その表情には悲しさや辛さを感じなかったように思う。それは、高度経済成長へとつながる日本全体の明るさを背景にしたものであったろうか。いづれにしても私たちの駅に対する原体験や原風景も、「ああ上野駅」にあるように思えるのだ。

 

【おらだの会】写真は、上野駅広小路口にあるモニュメントだそうだが、残念ながらまだ見たことがない。

 → 停車場憧憬 集団就職の頃:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 → (53)就職列車で(昭和30年代から):おらだの会 (samidare.jp)

2024.02.04:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

「サライ」から童謡「ふるさと」へ

  • 「サライ」から童謡「ふるさと」へ

「サライ」には、夢を追って故郷を棄てた若者の故郷を想う心情が謳われている。民俗学者・赤坂憲雄が『東北学/もう一つの東北』の中で、「『ふるさとは遠くにありて思うもの』とうたった時代から、故郷喪失の時代は始まっていたのだ」と書いている。驚くことに、室生犀星がこの詩を読んだのと時を同じくして大正3年(1914年)、「兎追いしかの山」で始まる童謡「ふるさと」が発表されている。

 「ふるさと」では、ふるさとの自然と共に「いかにいます父母、つつがなしや友垣」と思いを馳せながら、「志を果たしていつの日にか帰らん」と謳うのである。そのフレーズはサライでは「父と母の優しさに包まれた日々をなぞりながら生きる」、「帰るその日まで夢は捨てない、きっと帰る愛の故郷」と語られるのである。

大正3年と平成4年という80年もの時間を越えて、求め続けている故郷とは何だろう。赤坂教授は先の著書の中で、故郷を離れた者と故郷に留まった者との間の共同作業として、故郷を再検証し、あらたに創造してゆくべき時代がやって来ているといい、やがてそれぞれの「帰郷の時代」が始まるという。その時代には、どんな歌が生まれているのだろうか。


【おらだの会】写真は2年前の成田駅です。過去には、こんな記事もアップしていました。

 

  → 成田駅前変な民俗学 1-①茂吉と翁草:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

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  → ちゃぶ台写真展の民俗学的考察?!:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

2024.02.01:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

「サライ」の空に

  • 「サライ」の空に

 高校時代の友人から年賀状が届いた。「年齢のせいか、故郷が恋しくなってきました。」と書かれてあった。クラブのスーパースターであった彼も、故郷のことを懐かしく思いだすようになったのか、と感慨深いものがありました。

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 「故郷」というと、昨年10月に亡くなった谷村新司の「サライ(1992年(平成4年)発表)」が浮かんで来る。

 夢を捨てられずに故郷を出る若者が、汽車の窓から見える故郷の空の青さに気づき、切ない思いに駆られる。夢を追いかけて必死に生きる街で、見上げた空に白い雲が流れていく。その先には、父母の愛に包まれて暮らした故郷があったのだ、という内容の歌詞である。

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 友人が都会で想う「故郷の空」は、桜吹雪の空であろうか。それとも、今日のような冬晴れの空であろうか。今年は同窓会の予定があるとのこと。彼とも三十年振りに会えることを楽しみにしたいものだ。

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2024.01.29:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]