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いなかの白兎(6) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(6) 葉山伝説異聞

 さて5貢では「教義の話」や「神仏習合」の話題が出てきますので、葉山神社の来歴についてまとめておきたいと思います。先日、葉山神社の嶽本宮司に葉山神社に伝わる歴史を教えてもらいました。それによると恵法律師が池から仏像を拾い上げる手伝いをした人は、付近の横源太という人であること。恵法律師が仏像の安置場所について、西山にあった光明寺の宥光法印に相談したこと。恵法律師は宥光法印の説に従い、葉山山頂の景観地を選んで羽黒権現(祭神:保食命)を建立。同時に荒廃著しかった月山権現の御堂も再建したという。恵法律師はその後、葉山のふもとに庵を編んで余生を送り、医王山龍善院と称した。現在の葉山神社宮司の嶽本家の始祖である。(月山権現は恵法律師が山頂に行ったときにはすでに建てられていたことになる。)

 

 光明寺は、天慶2年(939年)玄明法印が初めて開いた寺といわれています。恵法律師が仏像を発見する約450年前のことです。神仏習合(神仏混淆)の時代は葉山の月山大権現の別当を勤め、月山修験大蔵院ともいわれていました。明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されると羽黒大権現と月山大権現が「葉山神社」として統一され、羽黒大権現の龍善院が神主となり、以後代々葉山神社を継承することとなった。一方、大蔵院は宥玄の時代に真言宗醍醐派のお寺となり、月光山光明寺大蔵院と改められたといいます。(「ふるさとめぐり致芳(平成9年:致芳地区文化振興会編)」の「光明寺跡」より。)

 

 そして6貢では狐が神から託された使命が明らかになります。「僧を無事に送り出せ、僧に何事があったら置賜全体に罰が当たりかねない。」との言葉は、当時の葉山神社の郡内での信仰の強さを表すものかもしれません。そしてその言葉に従うように、地元では明徳4年以来21年ごとに葉山宮のお建て替えが行われてきたのでした。

 

 

 

【おらだの会】 一部の資料では、神仏分離令において葉山宮に合祀された月山宮を復活させて、葉山宮と月山宮の二つを祀ることになり、立て替えられた社を葉山宮とよんでいる、と記述されています。月山権現が最初に建てられた時期や復活した時期など、まだまだ不確かな点が多く残っていますことをご了承ください。

 

いなかの白兎(7) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(7) 葉山伝説異聞

 さて、同じように作物や食物の神に仕えていた白兎と白狐なのに、なぜ630年にもわたって確執を繰り返したのであろうか。それは、日本書記の時代にまでさかのぼるのかもしれない。以下は日本書記の「保食神との対面」の概要である。

 

//天照大神から保食神に会うよう命じられた月読命は、地上に降りて保食神のもとを訪問した。これを歓迎しようと、保食神は口から食べ物を出して、月読命を迎えた。これを見た月読命は「なんと穢らわしい!」と怒って、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体から、牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となる。

 この月読命の所業を知った天照大神は、「汝悪しき神なり!顔も見たくない!」と怒り、太陽と月は半日ごとに現れるようになった。これが昼と夜の起源である。//

 

 「いなの白兎」の最後のページには、白狐が農産の神として一生懸命働いている様子が描かれているが、その姿はまさしく日本書記に出て来る保食神そのもののように思えて来る。また月読命と天照大神が衝突し反目し合う関係になったとされているが、生命という点からいえば相補うものと考えられるのではないだろうか。太陽と月(夜)の環の中で保食神による生命が育まれることを象徴するものではないだろうか。白兎の「豊作でも不作でももうけてやる」とのセリフは、壮大な生命の連なりを陰で支えようとする意志を表現しているものかもしれない。そう考えると、この作品の壮大さに改めて気づかされ、驚かされるのである。

 

 

【おらだの会】 驢馬さんの「いなの白兎」を読みながら、日本書記までたどり着きました。が、最初に浮かんだ二つの疑問、何故白兎が地名として残ったのか、何故この地に砂金でできた如来像があったのか、は謎のままです。そんなことも含めながら、次回をもっていよいよ最終回としたいと思います。もうしばらくのお付き合いをよろしくお願いします。

 

日本書記」の記事はこちらを参考にしました。

→ 月読命(つくよみのみこと)|三貴神(三貴子) | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼 (spiritualjapan.net)

いなかの白兎(完) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(完) 葉山伝説異聞

 葉山伝説で疑問が二つあった。一つは、砂金で作られた仏像が発見されたことの真偽である。調べてみると「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年)」には「山女川屋敷と板碑」の項で、次のような記述があった。また砂金が草岡川や最上川などから流れ着いたことなども考えられ、伝説が生まれる素地はあったと思ってよいのではないだろうか。

//白兎の小字山女川(あけびがわ)という所に、鉱山師である梅津市左衛門の屋敷跡があった。葉山や臼ケ沢(白鷹町)の金山が盛んな頃、金山大尽(大金持ち)となった。あまりぜいたくしたのでとがめられ、家財を取り上げられ追放されたという。//

 

 そして第2の疑問は、白兎と白狐が登場する中で何故、白兎が地名として残ったのかという点である。これについて私は、葉山の存在から考えるべきでないかと思っている。四方を山に囲まれた盆地に住む者にとって、特に西山は特別な存在である。陽が落ちる際の景色はまるで光背のようであり、いわゆる西方浄土の存在を確信させるかのようである。しかしそのひと時が過ぎると辺りは闇に包まれ、山々の漆黒の姿が浮かび上がるのである。その光景から崇めるとすれば保食命ではなく、月読命ではないだろうか。第6話で恵法律師が山頂に行って羽黒宮を建立した後に、荒廃していた月山宮を立て直したとあるのは、古人が原始宗教的に月読命を崇めていたことを示すものではないだろうか。また江戸時代の「白兎在家」は、神聖なる白兎の毛皮を献上することで忠誠の意を表したと考えられないだろうか。

 

 これらはすべて推測でしかない。ただ地元の人々は、地名を白兎とすることで、何か大切なものを残そうとしたことは間違いないと思われる。そして白兎の伝説を生んだ葉山の山容を、平成元年に「長井の心」として表現した人がいる。長井市の名誉市民である彫刻家長沼孝三氏である。芸術家の心をとらえて離れなかったものが、この景色にはあるのだろう。ふるさとの山はありがたきかな。

 

 

【おらだの会】写真は(一財)文教の杜ながい提供。長沼孝三氏については、こちらから

 → 文教の杜ながい - 文教の杜ながい|丸大扇屋・長沼孝三彫塑館・小桜館 (bunkyounomori.com)