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成田村伝説 №3.わさやの怪盗(2)

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 昔成田には7軒の金持ちがおった。佐々木宇右衛門、佐々木忠右衛門、佐々木太左衛門、横山仁右衛門、飯澤半右エ門、飯沢半十郎、山口惣右衛門の7軒である。頃は享和(1,801~1,804年)から文化、文政、文久、元治(1,864~1,865年)のあたりまでの5,60年の間である。(ちなみに米沢藩の藩主は第9代上杉治憲(鷹山)が1785年に退位した後の10代治広、11代斉定、12代斉憲の御代にあたる。明治元年(1868年)を間近に控えた頃のことである。)

 

 古老の話によると、成田の財閥の全盛時代には長井町の商業資本は殆んど成田から出ていたという。小出、宮、成田の財力を瓢箪に例え、瓢箪を横にして頭の小さいところは小出、中のくびれているのは宮、尻の大きいところは成田であるという。

 

 

【写真:「東講商人鑑」(長井市史第二巻近世編 564貢より)】

 写真は安政2年(1855年)に刊行された「東講商人鑑」。長井市の28人の中に、成田の佐々木宇右衛門、忠右衛門、太左衛門、小西屋仁右衛門、そして国主御用茶を製する五十川の平吹市之丞が掲載されている。また右下の略図には成田八幡宮が描かれ、「成田村佐々木卯右衛門の庭前に大木の栗あり 凡六百年余也 廻り三丈余あるべし 今に枯ずして其勢さかんなり」と記されている。佐々木家と栗の木については改めて紹介しましょう。

それでも花は咲く

  • それでも花は咲く
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4月5日の雪囲い撤去と杉っ葉拾いの後は、桜の銘板設置。令和改元を期して制作した万葉風銘板は6種類。今は十月桜が満開です。そして待合室にも桜の花が活けられています。一年中、駅舎に花を飾ってくれている方の作品です。コロナ騒動で暗くなってしまう心を救ってくれるような気がします。

駅前広場には枝垂れ桜、関山、寒緋桜、染井吉野、十月桜、御衣黄改め鬱金桜の6種類が植えられています。感染に注意しながらお楽しみください。

 

2020.04.08:orada3:コメント(0):[イベント情報]

成田村伝説 №3.わさやの怪盗(3)

  • 成田村伝説 №3.わさやの怪盗(3)

 この7軒のうち金持ちの筆頭は何と言っても佐々木家であった。佐々木家の先祖は近江の国の大名の時代から新発田を経て大判小判を背負って来たと言われ、ここに土着した時から既に大金持ちと言われた。

 その頃、金を貸していた宮、小出の人達を毎年秋の「えびす講」に招待した。そして一番多く貸しているお得意様を正座に据えていたが、それはいつも宮の長沼惣右衛門だったという。その頃惣右衛門は大きな太物屋で年千両の利息を上げていたということである。利息が千両というと、少なくとも一万両の金を常時貸していたことになる。今の米価に換算すると7億円という大金になる。それは惣右衛門一人に対する貸金であって、招待した一座の人達に貸した貸金の合計はどんなになったろうか。目の回るような話である。もっともこうした多額の金貸しは佐々木家だけであって、他家はそれほどではなかった。

 

【写真:「佐々木家ご本陣見取り図」(致芳史談会編「御本陳(陣)記録」39貢より)】

 長井市史(第二巻近世編 743貢)によれば、佐々木家は民家としては唯一、藩主上杉家の本陣(大名の宿泊所として指定された家)に定められていたという。「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編)」には「藩主が14回立ち寄られ、そのうち8回お泊りになったと御本陣記録に残っています」とある。

頑張れフラワー長井線

  • 頑張れフラワー長井線
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新年度事業のスタートは、雪囲いの撤去と冬の間に飛んで来た杉っ葉の除去作業。それが終わると広場にある桜の木に銘板を立てます。コロナ騒動で、長井線の乗客も少なくなっているようですが、運転手さんに手を振ると、笑顔を返してくれました。頑張ろう日本、頑張れフラワー長井線。
2020.04.05:orada3:コメント(0):[イベント情報]

成田村伝説 №3.わさやの怪盗(4)

  • 成田村伝説 №3.わさやの怪盗(4)

 古老からこんな言い伝えを聞いたことがあった。昔(それはいつの頃かわからない。)泥棒が佐々木家の倉をねらって破ろうとした。倉のわさやに隠れて人の寝静まるのを待った。それに道端なので人通りが途絶えるのを待たなければならない。なかなか人通りが絶えず、とうとう第一夜は何も仕事は出来ずにしまった。泥棒は次の晩に、今晩こそはと思ったが、その晩もとうとう駄目だった。こうして、とうとう7晩経ってしまって、泥棒も諦めて引き上げることにした。それにしてもこんな田舎で真夜中までも人通りが絶えないというのは不思議だと思ったという。

 

【写真:佐々木家建物配置図(致芳史談会編「御本陳(陣)記録」63貢より)】

 ようやく怪盗の登場です。怪盗が潜んでいたのは、内蔵だったのでしょうか。また配置図で注目したいのが右下の明治7年に建てられたという製糸館です。芳文「郷土に光を掲げた人々(第1回)」によれば、第10代宇右衛門(市助)が佐野理八(二本松製糸会社創建・佐野シルク)を招いて改良に乗り出し、動力は水車で44釜の規模であったという。そして明治9年6月9日、大久保利通内務卿がこの製糸工場を視察し、佐々木家に宿泊。翌日、宇右衛門、菅原白竜が同行し最上川を下ったという。