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広田泉さん逝く ~ 線路を繋げて人を繋げて

  • 広田泉さん逝く ~ 線路を繋げて人を繋げて

 2011年の出会いから羽前成田駅とおらだの会を応援してくれた広田泉さんが亡くなられた。『がんばるニャンズ~線路をつなげて』と題した記事の最後に「広田さんを真ん中にして、同窓会がやれればいいですね。」と書いていたのだが、それは果たせない夢となってしまいました。せめて広田さんとの想い出を駅舎に飾って追悼したいと思っています。

 

 広田さんが残してくれた言葉を改めて記したい。

○今年は大変なことになってしまいました。思い出の場所や大好きな場所が津波や豪雨により被害を受け、線路もまた・・・。何とか線路を繋げ、人を繋げてニッポンを繋げたい。本気でそう考えていますので、応援よろしくお願いいたします。(「元気が出る写真展2011」出品者メッセージより)

○駅は、地元の人のものだ。でも今、地元の人も駅を見捨てつつある。

○成田駅は、東北の中でも最も“攻めている駅”だ。

○ローカル線は地元の人に愛されないと残っていけない。

○だから私は、駅を愛している人を応援したい。

○そして私は、駅を盛り上げてくれる“人”も含めた基盤を地元につくりたい。

○地元の人に言いたい。皆さんは何をやってる?。 ここで生きる覚悟がありますか?

 

私達は、この問いに真剣に向き合わなければいけないと思う。広田さん有難うございました。 合 掌

 

2020年6月の『線路をつなげて』の記事はこちらから

 → がんばるニャンズ:おらだの会 (samidare.jp)

 

2020年10月の「広田泉特別写真展」の様子はこちらから

 → イベント情報:おらだの会 (samidare.jp)

 

 

 

【おらだの会】写真は長井高校写真部の生徒さんにアドバイスする広田さん。(2019年6月18日撮影)

2022.04.01:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

(25)長井線を守ろうカラオケ大会も

  • (25)長井線を守ろうカラオケ大会も

 今年は羽前成田駅が開業してから100年になる。そんな節目の年に、これまでの歩みを振り返ることはこれからの活動を考えるヒントも得られそうな気がする。そんな思いを抱きながら、羽前成田駅協力会の資料をみていきたい。

 

 羽前成田駅協力会が発足した昭和59年度の事業報告を見ると/4月22日 長井線まつり参加(長井駅前)/4月30日~5月1日 長井市民号参加/7月28日 長井線を守るカラオケ大会協賛(成田駅前広場)/8月8日 羽前成田駅前ゲートボール場開き、とある。

 

 長井線まつりは荒砥までの全線開通の日(4月22日)に合わせて実施。第1回は昭和56年に行われており、以後昭和61年まで長井市、白鷹町、南陽市が会場持ち回りで開催したという。また長井市民号という事業も企画されている。

 

 成田駅ではゲートボール場を整備し、カラオケ大会が開催されるなど駅協力会と公民館、老人会などが一緒になって運動を盛り上げていたことが伺える。ある意味では羨ましく思う点がある。コロナ禍もあって困難な状況ではあるが、こうした雰囲気を創り上げていきたいものである。

 

 

【おらだの会】 写真は昭和60年の「長井線を守ろうカラオケ大会」(「写真でみる致芳のあゆみ」より)

2022.03.30:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(24)駅協力会のスタート地点

  • (24)駅協力会のスタート地点

 羽前成田駅協力会が簡易委託駅化に対応するために昭和59年4月11日に設立されたことは前回お話したとおりである。しかしながら西大塚駅は成田駅よりも早く昭和46年に簡易委託駅になりましたが、駅協力会が発足したのは昭和63年10月である。蚕桑駅と鮎貝駅も成田駅と同じ年に簡易委託駅となりましたが、駅協力会は発足しなかったようである。一方、時庭駅協力会は昭和63年9月、長井駅南長井駅協力会が平成元年1月に発足しているのをみると、各市町の考え方の違いがでているようである。

 

 それはともかく、羽前成田駅が沿線の中で最も早く駅協力会という地元組織がつくられたことは注目しておきたい。上の写真が昭和59年の羽前成田駅の様子である。玉置清吉さんはこの建屋の駅務室に入って仕事をしたのである。見るからに雨漏りがしそうなこの駅舎こそが、玉置さんと羽前成田駅協力会が立ち向かったスタート地点であり現実だったのである。

 

【写真提供:故玉置清吉氏(昭和59年8月13日撮影)】

羽前成田駅舎の変遷についてはこちらからどうぞ

→ 停車場の追憶写真帳:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.28:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

樹を守る人を忘れず

  • 樹を守る人を忘れず
  • 樹を守る人を忘れず

 彼岸も過ぎて開花宣言の話題も聞かれるようになった。例年になく雪の多かったこの地でも、雪は跡形もなく消え去っていくようだ。そんな中で、駅前広場では高所作業車からの散布作業が行われていた。

 

 駅前には成田駅開業当初に植えられたと思われる染井吉野の他に枝垂桜や鬱金(ウコン)、関山、寒緋桜など、珍しい桜を見ることが出来る。置賜桜回廊の隠れスポットとなっている。これも髙橋鯉屋さんが一年をとおして手をかけてくれるお陰である。

 

 木を植えた人を忘れず、樹を守る人を忘れず。桜の樹の下で懐かしい人たちと語り合える日が来ることを願っている。

 

 

【おらだの会】高橋鯉屋さんは毎年、桜のライトアップもしてくれています。夜桜の写真は平成29年の4月に鉄道写真家広田泉さんがおいでになった時のものです。

2022.03.26:orada3:コメント(0):[停車場風景]

(23)永遠の羽前成田駅長・玉置清吉さん

  • (23)永遠の羽前成田駅長・玉置清吉さん

 羽前成田駅では、昭和36年に貨物取扱いが廃止され、昭和39年には業務委託駅となり、さらに昭和59年には簡易委託駅となりました。その業務を担うことになったのが成田在住の元国鉄職員・玉置清吉さん(写真)でした。

 

 羽前成田駅協力会の総会資料によれば、昭和59年3月19日から玉置さんに業務を委託し、同年3月23日には簡易委託化に伴う対策について地元関係者会を開催し、4月11日には長井線沿線駅で最初の羽前成田駅協力会が設立されています。この迅速な動きの陰には当時の市議会議員や自治会、地区長会の役員、それに加えて長井市職員で長井線対策の中枢を担った故小口昭氏(成田久保町住民)等地区リーダーの存在があったはずである。

 

 そして地元住民が駅長にお願いしたのが玉置清吉さんだったのです。玉置さんは大正11年1月1日生まれ。息子さんのお話では15歳で国鉄に就職して定年退所後も成田駅に勤務し、70歳を迎えたことを区切りとして制服を脱ぐ決意をしたとのことです。駅協力会の資料によれば玉置さんが勤めた初年度の売り上げは、前年度比133パーセント増だったそうです。

 

 また駅周辺を四季折々の花々で埋め尽くした玉置さんは、その温和な人柄で「花の駅長」として皆に愛され、現在の羽前成田駅周辺の環境整備の基礎を作られたのでした。地元民にとってはまさに「羽前成田駅・永遠の駅長」であり、羽前成田駅の歴史に永遠に残されなければならない人物の一人だと思います。

 

【おらだの会】

玉置さんの記事はこちらから 

 花の想い出:おらだの会 (samidare.jp)

 線路の向こう側も・・・:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

2022.03.24:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]