HOME >   №4 いなかの白兎

いなかの白兎(1) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(1) 葉山伝説異聞

 「この駅は無人駅ですよね。この荷物をここに届けていいのかな?」と不安そうな顔をして、宅急便屋さんが駅茶に入ってきた。5月20日(日)、たままた週末の午後で、写真展で開場している時だった。レターパックを開けると、「いなの白兎」と題した手作りの漫画冊子が数冊と次のような手紙が添えられていた。

 

//おらだの会の皆様、何度か羽前成田駅を訪れております驢馬と申します。この度は長井線全通100周年おめでとうございます。さて、何度か長井を旅した際、白兎伝説に興味を持ち、この度伝説を題材にした漫画冊子を作りましたので少しですがお送りいたします。素人のつたない漫画同人誌でありしかも独自に創作したものでお恥ずかしい限りですがお読みいただければ幸いです。//

 

 驢馬さんは成田から白兎にかけての風景を深く愛され、駅ノートにもたくさんの素敵な絵を残してくれている方です。「ふるさとの伝説」には地元小学生が制作した紙芝居「悲しいおせきの話」がありますが、今回、驢馬さんの「葉山伝説異聞~いなかの白兎」が加わります。次回から順次紹介していきますのでお楽しみにしてください。まずは、これまでの驢馬さんに係る記事をご覧いただきながら、伝説への旅の準備をいたしましょう。

 

 → この風景に会いに来ました:おらだの会 (samidare.jp)

 → 散策のすすめ:おらだの会 (samidare.jp)

 

いなかの白兎(2) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(2) 葉山伝説異聞

 驢馬さんの日本昔話『いなのしろうさぎ』がいよいよ始まりました。まずは白兎と白狐、お坊さんの出会いの場面から始まります。漫画昔話の楽しさを損なわない程度に、地元に伝わる言い伝えなどを紹介したいと思います。最初に葉山神社縁起をもとに制作されたという「致芳ふるさとめぐり」の記事をご覧ください。この中に歴史の秘密を紐解く暗号が隠されているのかもしれません。

 

//大昔(約1400年位前)朝日岳は、信仰の山として月読命保食命が祀られていました。ところが、約950年前に安部貞任、宗任と源義家が戦いをはじめ、源氏が安部氏を滅ぼして、朝日岳や葉山にかくれていた人々を追いはらってしまいました。そのため約330年は草深い山となり、道もない荒れ果てた山となったのです。
 ところが、明徳4年(1393年)丹後国(京都の南西)の恵法律師という偉い和尚さんが、羽黒山に詣でるために五十川の四ツ家(現袋稲荷神社付近)まできたときに、紫の雲が森の上にたなびいているのを見て不思議に思い、森の中の池をさがすと、澄んだ水の池に金波がたち、岸には良い匂いの草が生えているので、その池に入ると泥にも染まらず衣もぬれずに一体の仏像が見つかりました。この仏像は、閻浮檀金(えんぶだごん:砂金でできた仏像)の薬師如来でした。この仏像を捧げて、白狐と白兎に導かれて西山に登り、平坦な土地(今の葉山平)と農園(御田代)があったので、そこにお社を建てて祀ったといわれています。(「致芳ふるさとめぐり」より:長井市致芳コミュニティセンター)//


 

 ここで白兎ちゃんは、「白兎」という地名は、高僧を葉山に案内した白兎を崇めてつけられたと語ります。これは私たちが伝え聞いている内容と同じです。このためこの地区ではウサギを食することはもとより、捕獲や飼育もタブー視された時代があったとも聞いています。しかしながら「やまがた地名伝説」では、それとは異なる起源説を紹介しています。その概要は次のようなものです。

 

//永禄9年(1566年)の「鮎貝文書」には、ウサギを尊ぶ話とは逆の話が載っている。当時、周囲の村々を支配した地頭の下に役割分担を果たす多くの「在家」と称する集落があった。その中の「白兎」は、白いウサギを飼育して毛皮を領主に献上する役目の村であったことから白兎の地名が発祥したと記されている。(「やまがた地名伝説」より:山形新聞社 平成15年)//

 

 同書の中で長井市文化財調査会長である竹田市太郎氏(当時)は「これほど史実と伝説が混在した地名も珍しい」との談話を寄せている。ふるさとの昔話が伝えるものは何なのだろうか。妄想の旅(?)が始まった。

いなかの白兎(3) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(3) 葉山伝説異聞

 僧を案内した白兎と白狐が登場し、以後、丁々発止のやり取りが交わされることになる。第2場では僧が羽黒山に向かう「修験者」であること、白兎が「葉山の神様の使い」であることが明らかになる。白狐は奥深い葉山に行くのに小動物(ウサギ)の出番はない」と言い放つ。かく言う白狐は、第6頁で「稲荷の神様に頼まれてきたキツネ」であることを明らかにするのである。

 

 第1場のコメントで「約1400年前頃に、朝日岳は、信仰の山として月読命(つくよみのみこと)と保食命(うけもちのみこと)が祀られていました。」と書きました。月読命は月の満ち欠けによって農作業の時期を伝える神であり、保食命は農作物の豊穣を司る神であり、白兎と白狐はそれぞれ、月読命と保食命の使いとされていたのです。月読命と保食命については改めてお話することにしたいと思います。

 

 さて出羽三山の開基は593年と言われるが、今から1400年前の西暦600年頃は、朝日岳も修験道を中心とした山岳信仰の場として重要な場所であったと思われます。そんな霊験あらたかな場所が、安部貞任・宗任が滅ぼされた前九年の役(1062年)などで荒廃してしまっていた。そこに羽黒山(出羽三山)を目指す僧が通りかかり、金色に輝く如来像を発見するのである。そして2匹の使徒に導かれるようにして葉山の山頂に向かって行った、というのである。


 けれども兎と狐が同時に登場する伝説は、全国的にも珍しいと思われるがどうだろうか。そしてその中で「白兎」が地名として残ったのは何故だろう。そもそも何故この地に砂金でできた如来像があったのだろう。

 とりあえず次回は白狐が言った「肌身離さず抱えている賽銭箱」を調べてみたい。妄想の旅はまだ続く。

いなかの白兎(4) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(4) 葉山伝説異聞

 白狐が白兎に向かって「肌身離さず抱えている賽銭箱は何?」と詰問する。作者の驢馬さんが葉山神社を訊ねた際に、賽銭箱を抱えた兎の狛犬が立っていることに驚き、金に執着する兎を登場させることにつながった、と「あとがき」に書いてあります。また後の手紙には「地元の人にとってはとても大事で、神聖な兎に対してこのような役回りをさせてよかったか、との不安が・・・」とありました。

 

 そこで狛兎を調べてみると葉山神社の狛兎は、兎年の記念事業の一つとして平成12年に設置されたとのことですが、賽銭箱に係る経緯は確認することができませんでした。さらに調べてみると、「月読命」を祭神とする月山神社には、「中の宮」の前に兎の像が置かれていて、しかも賽銭箱を抱いていることがわかりました。

 

 葉山神社と月山神社の狛兎が存置されている場所は、遥拝殿と中の宮の前である。とすれば、本宮に参拝できない人々の思いを、浄財と共に祭神に届けてあげたいとの意味が込められていると考えてみてはどうだろうか。稲荷神社の狛狐のように、祭神の使いとされる動物が神殿の前に存置されている例は少なくないと思われますが、それらが賽銭箱を抱いているものかどうか、これから気を付けて見たいものだ。

 

 さて、驢馬さんが気になった賽銭箱は、葉山神社と月山神社との関係に気づかせることになりましたが、両社にはさらにふか~い関係があるようです。それは次回のお楽しみに。

 

 

 月山神社の狛兎についてはこちらを参考にし、写真も使わせてもらいました。

→ 出羽三山 月山神社本宮の神兎(山形県) | 神兎研究会 (shintoken.jp)

いなかの白兎(5) 葉山伝説異聞

  • いなかの白兎(5) 葉山伝説異聞

 葉山神社と月山神社の関係は白兎の存在だけでなく、地勢的な環境でも極似したものがあるようです。前回紹介した神兎研究会の記事を上の写真と共にご覧ください。

//美しい風景が周りに広がりました。阿弥陀如来が祀られていたため「弥陀ヶ原」と呼ばれます。高原に特徴的な「池塘(ちとう)」という池が点在しており、神が田植えをしたようなので「御田ヶ原」とも。高山特有の天国のような場所です。極楽浄土。//

 

 一方、葉山山頂についても同じような記述がされています。「いなかの白兎(2)」の一部を再掲します。

//この仏像は、閻浮檀金(砂金でできた仏像)の薬師如来でした。この仏像を捧げて、白狐と白兎に導かれて西山に登り、平坦な土地(今の葉山平)と農園(御田代)があったので、そこにお社を建てて祀ったといわれています。//

 

 さらに「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年)には「御田代の周辺」と題して、次の説明が書かれています。

//神社のすぐ西北に湿原があります。直径100m程の小さな湿原ですが、大鮎貝川他の水源です。昔から里の田植えが終わると苗を背負って登り、この湿原を田に見立てて田植えをし神様の加護を願ったものでした。//

 

 

 同じような自然環境が、神なるものへの類似した尊崇の念を生むことは当然有り得ることであろう。けれども当時の三山信仰の位置づけを考えれば、月山神社と同じような環境にあることは、葉山への畏敬の念と共に地域の誇りとして受け継がれていくことも大いに有り得ることではないだろうか。