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成田村伝説 №3.わさやの怪盗(1)

  • 成田村伝説 №3.わさやの怪盗(1)

 さてさて昔話や伝説には、怖い物語が多いものです。中でも屋根裏とか天井裏を題材にしたものには、今で言う「超ホラー」的な物語があるようです。例えば映画では「屋根裏の殺人鬼」。小説では江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」、折原一の「天井裏の散歩者」。さらに多少エロチックではありますが、漫画「屋根裏の侯爵夫人」などなどであります。

 

 さて成田村伝説の第3弾で紹介しますのは、成田村の佐々木宇右衛門家を舞台にした「わさやの怪盗」という物語です。「わさや」というのは土蔵の天井裏のことです。さてさて、怪傑ゾロが出るか怪傑エロが出るか、乞うご期待。

 

 

【わさやについて】「わさや」一般的な用語ではないようです。市内にある工科短大の先生にお聞きしたところ、蔵の屋根は「置き屋根」と呼び、その骨組みを「鞘組(さやくみ)」と言うそうです。「わさや」はこの「さやくみ」から来た呼称でないか、と教えてもらいました。ここでは土蔵の天井裏のことを、原文のまま「わさや」と呼ぶことにします。

 

 

【おらだの会】今回のお話は、横山文太郎著「成田の歴史」(昭和53年3月 致芳史談会発行)をもとに制作したものです。なお、旧佐々木家についてはこちらをご覧ください。

   → 旧佐々木家 | 成田(なりた) | 致芳ふるさとめぐり | 長井市致芳コミュニティセンター (chihou-cc.org)

成田村伝説 №3.わさやの怪盗(2)

  • 成田村伝説 №3.わさやの怪盗(2)

 昔成田には7軒の金持ちがおった。佐々木宇右衛門、佐々木忠右衛門、佐々木太左衛門、横山仁右衛門、飯澤半右エ門、飯沢半十郎、山口惣右衛門の7軒である。頃は享和(1,801~1,804年)から文化、文政、文久、元治(1,864~1,865年)のあたりまでの5,60年の間である。(ちなみに米沢藩の藩主は第9代上杉治憲(鷹山)が1785年に退位した後の10代治広、11代斉定、12代斉憲の御代にあたる。明治元年(1868年)を間近に控えた頃のことである。)

 

 古老の話によると、成田の財閥の全盛時代には長井町の商業資本は殆んど成田から出ていたという。小出、宮、成田の財力を瓢箪に例え、瓢箪を横にして頭の小さいところは小出、中のくびれているのは宮、尻の大きいところは成田であるという。

 

 

【写真:「東講商人鑑」(長井市史第二巻近世編 564貢より)】

 写真は安政2年(1855年)に刊行された「東講商人鑑」。長井市の28人の中に、成田の佐々木宇右衛門、忠右衛門、太左衛門、小西屋仁右衛門、そして国主御用茶を製する五十川の平吹市之丞が掲載されている。また右下の略図には成田八幡宮が描かれ、「成田村佐々木卯右衛門の庭前に大木の栗あり 凡六百年余也 廻り三丈余あるべし 今に枯ずして其勢さかんなり」と記されている。佐々木家と栗の木については改めて紹介しましょう。

成田村伝説 №3.わさやの怪盗(3)

  • 成田村伝説 №3.わさやの怪盗(3)

 この7軒のうち金持ちの筆頭は何と言っても佐々木家であった。佐々木家の先祖は近江の国の大名の時代から新発田を経て大判小判を背負って来たと言われ、ここに土着した時から既に大金持ちと言われた。

 その頃、金を貸していた宮、小出の人達を毎年秋の「えびす講」に招待した。そして一番多く貸しているお得意様を正座に据えていたが、それはいつも宮の長沼惣右衛門だったという。その頃惣右衛門は大きな太物屋で年千両の利息を上げていたということである。利息が千両というと、少なくとも一万両の金を常時貸していたことになる。今の米価に換算すると7億円という大金になる。それは惣右衛門一人に対する貸金であって、招待した一座の人達に貸した貸金の合計はどんなになったろうか。目の回るような話である。もっともこうした多額の金貸しは佐々木家だけであって、他家はそれほどではなかった。

 

【写真:「佐々木家ご本陣見取り図」(致芳史談会編「御本陳(陣)記録」39貢より)】

 長井市史(第二巻近世編 743貢)によれば、佐々木家は民家としては唯一、藩主上杉家の本陣(大名の宿泊所として指定された家)に定められていたという。「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編)」には「藩主が14回立ち寄られ、そのうち8回お泊りになったと御本陣記録に残っています」とある。

成田村伝説 №3.わさやの怪盗(4)

  • 成田村伝説 №3.わさやの怪盗(4)

 古老からこんな言い伝えを聞いたことがあった。昔(それはいつの頃かわからない。)泥棒が佐々木家の倉をねらって破ろうとした。倉のわさやに隠れて人の寝静まるのを待った。それに道端なので人通りが途絶えるのを待たなければならない。なかなか人通りが絶えず、とうとう第一夜は何も仕事は出来ずにしまった。泥棒は次の晩に、今晩こそはと思ったが、その晩もとうとう駄目だった。こうして、とうとう7晩経ってしまって、泥棒も諦めて引き上げることにした。それにしてもこんな田舎で真夜中までも人通りが絶えないというのは不思議だと思ったという。

 

【写真:佐々木家建物配置図(致芳史談会編「御本陳(陣)記録」63貢より)】

 ようやく怪盗の登場です。怪盗が潜んでいたのは、内蔵だったのでしょうか。また配置図で注目したいのが右下の明治7年に建てられたという製糸館です。芳文「郷土に光を掲げた人々(第1回)」によれば、第10代宇右衛門(市助)が佐野理八(二本松製糸会社創建・佐野シルク)を招いて改良に乗り出し、動力は水車で44釜の規模であったという。そして明治9年6月9日、大久保利通内務卿がこの製糸工場を視察し、佐々木家に宿泊。翌日、宇右衛門、菅原白竜が同行し最上川を下ったという。

 

成田村伝説 №3.わさやの怪盗(5)

  • 成田村伝説 №3.わさやの怪盗(5)

 泥棒が帰りしなに佐々木家に立ち寄って言うことには、「私はこちら様の土蔵を破ろうとした泥棒です。わさやの上に7晩泊って狙ったが、人通りが絶えなくて破ることが出来なくて諦めて今帰るところです。この後も私のような不心得者が居らないとも限りませんから、倉のわさやは人が隠れられないように改築したら如何でしょう。私は二度と再びこの地には来る気もありませんので、7日間御厄介になったお礼に申し上げておきます。」泥棒はそのまま何処ともなく立ち去った。佐々木家ではこの泥棒の話を誰が聞いたかわからないが、すぐにこの蔵のわさやを泥棒の忠告通りに造り替えたという。

 当地の蔵のわさやは大抵天床壁の上、屋根まで2尺5寸か3尺くらい間があり、人間は何人でも隠れ住むことができる。この佐々木家の内蔵は天床壁から直で屋根になっていて、猫も上がれないようになっていたというのである。

 

 

【写真:白浪5人男】この盗人は爽やかで、歌舞伎の一場面を見るようである。怪盗というよりは快盗が適当だったかもしれない。快盗の見えに佐々木家では「あいや待たれや盗人殿。袖すり合うも何かの縁。旅のよすがに栗の一枝を持っていかれよ。」と言ったとか。