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金華山講(巳待講)

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川樋諏訪神社の鳥居をくぐると右側に池があり、池の中に祠があります。

弁財天(弁天様)を祀っています。

 

また参道と境内には金華山の石碑が三基建立されています。

巳(み)の日に行う弁財天を本尊とする金華山講で巳待(みまち)講とも云います。

 

南陽市史民俗編には川樋で行われていた講の様子が記されています。

 

講が開かれるのは、稲刈りが済んだ頃の巳の日で、講元の佐竹を招いて開かれる。

当日は午後3時頃まで講中の男衆が宿に集まる。

まず祭壇がつくられる。正面に本尊が祀られ、その前に灯明・お神酒・いり豆をつけた団子が供えられる。

一同揃って拝みあげの後、会食する。賄いは精進料理で、酒は二級酒※二升と決めている。

年一回、金華山から佐竹宛にお札が届くので、それを三組に分け、それから各戸に配られる。

 

宮城県石巻市にある金華山は江戸時代(神仏習合の時代)まで、弁財天を祀っていました。

 

引用:南陽市史 民俗編

 

※平成4年まで日本酒には級別制度があり、酒の味は二級酒で覚えました。

2020.07.17:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

供養塔

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川樋諏訪神社の拝殿に向って右側に供養塔が建立されています。

正面に「南無観世音菩薩」と陰刻され、右側面に「延享三丙寅(1746)八月十八日」、左側面に「講人衆廿六人」と刻まれています。

 

今野竹蔵氏によれば

「神社裏にあった鉱山の事故で亡くなった人々を供養したものであろうか。」

と推測しています。

 

大洞金山は寛永十九年(1642)に廃抗となりましたが、寛政四年(1792)の「樹蓄建議」に川樋村の鉱山について、

「川樋村の内、千枚、二十枚、北ノ沢、山居沢、処沢、各金山也」

と記されていますので、場所を変え鉱山は続いていたことを示しています。

(この頃は川樋村の中に新田も入っています)

 

諏訪神社の西側にある鉱山は、戦前まで掘られていて、残土で社殿前を平らにしました。

廃抗後、鉱山跡地は川樋の子供達にとって水晶取りのメッカとなりました。

 

左側面に「講人衆」と刻まれていることから、観音講※の石碑とも考えられます。

 

※観音講は定例の集りをもち御詠歌を奉詠する講で、札所観音巡りを行うこともあります。

延享の時代ですと岩部山三十三観音はありませんが、置賜三十三所や最上三十三所巡りが行われていました。

 

参考:今野竹蔵著「北条郷鉱山史話」・南陽市史 民俗編

2020.07.16:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

句碑

  • 句碑
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川樋諏訪神社の不老泉の傍に二基の句碑が建立されています。

 

結ぶより はや歯にひゞく しミつかな

                   芭蕉 (画像1枚目)

 

明治四年(1872)四月、二孔以下12名の俳人連によって建てられました。

松尾芭蕉の句は「泉かな」となりますので、この地で詠んだ句ではなく、不老泉にふさわしい芭蕉の句を選んだものと考えられます。

「結ぶ」とはすくって飲むという意味です。

 

蝙蝠(こうもり)や 花表※の外ハ まだ暮ず 

                     作者不明 (画像2枚目)

 

うっそうとした鎮守の森を詠んだ句です。

誰が建立したのか不明ですが、川樋では俳諧が盛んだった様子がうかがわれます。

 

※華表、鳥居のことです

 

引用:南陽市史

2020.07.15:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

不老泉

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川樋諏訪神社にある泉で、古くから老ぬ清水と称せられ、名物の一つに数えられていた。

 

「之を飲む者齢を延ぶ、一升而四百二十匁、京都泉町の井に同じ、故に茶水に尤佳なり」※1と記され、

「茶水硯水第一也。性は京都鴨川の水に類す。太閤の右史、和久半左衛門※2も鴨水に替ることなしと賞せり。如何なる大旱にも古今涸れたることなし云々」と称揚している。

 

紀徳民(細井平州)松島記「雄島の笘」には

 出羽なる老ぬ清水の老ぬとや 和歌の浦波たちもまじらぬ

と詠まれている。

 

又、粟野義広は「越境記事」に

 年を経て長井の里に住にけり 老ぬ清水に老を忘れて

と詠まれて、古来より名高かったことがわかる。

 

明治十四年(1881)、明治天皇御巡幸の節、此清水に「御膳水」の立札が立てられ、京都加茂川(鴨川)の水に等しい水を献上申上げたのであった。

 

※1 鶴城地名選 文化元年(1804)

※2 豊臣秀頼の右筆をつとめ、のち伊達政宗に招かれ千石を与えられた

   右筆とは、文書や記録をつかさどる職

 

参考:赤湯町史・東置賜郡史

 

川樋の字名「清水尻」は不老泉の下流にあることから名付けられました。

2020.07.14:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

川樋 諏訪神社

  • 川樋 諏訪神社
  • 川樋 諏訪神社
  • 川樋 諏訪神社

川樋字根小屋※に諏訪神社が祀られています。慶長年間(1596~1615)に上杉氏の家臣である清水三河守康徳が創建したと伝えられています。

同じ頃、清水は元中山の諏訪神社も創建しています。

 

清水は信州更級郡(現:長野市)の人で、天正十年(1582)上杉景勝より臣属を促す史料が残されています。

上杉氏移封に伴い、慶長三年(1598)中山城(城将:横田式部少輔旨俊)に配され、元中山を経て中山城下に移り住みました。

 

※中世戦国時代、防御を厳重にした山城に対し、居住を主とした山のふもとの集落を根小屋と呼んでいました。

諏訪神社の山側には虚空蔵山館跡と鷹戸山館跡が残っています。

 

赤湯町史より引用

 諏訪神社 元指定村社 大字川樋字根小屋

 祭 神 建御名方命(たけみなかたのみこと)

 由 緒 創立年号が詳かではないが上杉景勝公移封のとき中山城に配された清水某が

     信州諏訪明神の分霊を勧請して建立したと伝えられている。

     境内には清冷な泉が岩の間から湧いており如何なる旱魃にも涸れることがなかった。

 社 殿 本殿一坪、拝殿十六坪

 境 内 二00坪

 例祭日 八月二十六日

 宮内方面で旱魃に困る時は熊野神社の御告を受けて神酒持参で雨乞いに来る慣習となっている。

 

社殿は大正7年(1918)の大火で焼失し、大正8年に再建されました。

 

諏訪神社内の史跡について何回かに分けて紹介したいと思います。

 

2020.07.13:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]