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宝山塔

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6月19日に紹介した新田の山崎神社境内に宝山塔が建立されています。

江戸時代、減免を認めさせた大沼金右衛門(剃髪して宝山と号す)への報恩塔です。

 

新田地区はその名のとおり、江戸時代に新たに開拓された村で川樋新田と称していました。

新しく田畑を開発した村は収穫高が少なく、本田の村より年貢が安いのが普通でしたが、米沢藩の厳しい検地により本田の川樋村と同じ年貢率(税率)でした。

そのため、新田村の農民たちの生活は苦しく、食べるものも事欠く状況でした。

 

時の肝煎(村長)大沼金右衛門は米沢藩庁に年貢減免を何度も嘆願しました。

やがて年老いた金右衛門は肝煎を譲り、お坊さんとなって「宝山」と名乗り、領内の神社仏閣にお祈りして回りました。

その甲斐あって、寛文七年(1667年)に米沢藩は新田村の窮状を認め、年貢率23%を13%に減免する命令が出ました。

 

村人たちは藩庁へのはばかりがあり、公けに感謝することは出来ませんでした。

約200年後の嘉永六年(1853年)、金右衛門の恩を忘れないように「宝山塔」を建立しました。

 

参考:南陽市史・市報なんよう(平成29年1月1日号)

 

2枚目の画像は神社入口の遠景です。

2020.06.24:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

大洞の八幡神社

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川樋の大洞地区にある八幡神社です。

大洞は東北中央自動車道の南陽PAがある地区です。

川樋字白旗平に八幡神社があります。その入口の橋を渡ると左側に「華表供養塔」が見えます。華表とは鳥居のことで、鳥居を立て直した安政五年(1858年)に供養塔を造立しました。

 

神社近くに3つの石造物が建っています。

向って右側の石塔には文化四丁卯年(1807年)と陰刻されています。

真ん中の碑は庚申供養塔で、安永五丙申年(1776年)と刻されています。

左側の石造物ですが、上側に日月、仏像は一面六臂(一つの顔に6本の手)の立像で、憤怒の表情をしていることから、庚申講の本尊である「青面金剛」(しょうめんこんごう)と考えます。

 

大洞は江戸時代前期、大洞千軒と云われるほど鉱山が繁栄していました。しかし寛永七年(1642年)廃坑後は戸数減少し、鉱夫の長屋がどこにあったのか定かではありません。

 

参考:南陽市史(ただし石造仏像の解釈は違います。)

2020.06.23:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

新田堤

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十分一山の北麓に新田(しんでん)堤があります。新(しん)堤とも呼びます。

この新田堤は大正時代に作られた灌漑用の堤です。

 

元々この一帯は大谷地(湿地帯)で水田耕作が難しい環境が続いていました。

大正時代に新田の銀山地区(谷地地区とも云う)の開墾を進めましたが、泥炭層の場所が沈み、湧水などがたまるので周囲を高く土盛りし、堤として活用することにしました。

この時完成したのが新田堤です。

その後も客土などの土質改良を重ね、茫々たる草原を美田に変えました。

大正9年に銀山地区の開墾を記念し、五十匁(ごじゅうめ)山の麓に記念碑を建立しました。

 

新田堤は完成から2年ほど経つと、底の泥炭層に浮力が生じて浮き上がり浮島になりました。

水面が上がると泥炭浮島も浮いて移動します。

 

泥炭浮島には貴重な動植物が生息しています。昭和59年には南陽市指定文化財(天然記念物の部)に指定されました。

山形県のレッドリストの指定を受けた種もいて、動植物の採集は禁止されています。

(堤内への立入りも禁止です。)

 

参考:市報なんよう 平成28年8月1日号

2020.06.22:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

新田の山崎神社

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新田地区にある山崎神社です。

平成25年8月に再建されました。

祭神の天手力男命(あめのたぢからおのみこと)※を祀る置賜地方では数少ない神社です。

 

東置賜郡史に記載された神社164社のうち、中川地区にある山崎神社と岩崎神社、川西町上小松の置賜四所神社(七柱のうち一柱、天太刀雄命と記載)の3社だけでした。

 

3社のうち2社が中川地区にあることについて調べましたが、よく分かりませんでした。

 

創建された江戸時代前期は、中山城武将の清水三河守康徳(信州更級郡の人)が信州諏訪大明神を川樋と元中山に勧請した時期です。

また上杉藩によるこの地の鉱山経営で甲州から鉱夫が来ています。

今の長野県・山梨県との関係から、天手力男命を祀るようになったのかも知れません。

 

赤湯町史(昭和43年)より

 山崎神社 元指定村社 大字新田字長清水

 祭 神:天手力男命

 由 緒:詳かでないが川樋新田に鉱山が栄えた寛永時代(1624~1645年)に

     建立されたと伝えられている

 社 殿:本殿は巨石を穿ち御神体を納めている

 

※天岩戸を開けた神様で、力の神とされています。

2020.06.19:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

花窪の枩尾神社

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元中山字花窪にある枩尾(まつお)神社です。

明神鳥居に「松」ではなく「枩」と刻まれているのが確認できます。

 

この140段以上ある石段は

(「元中山神社巡り」の3枚目と4枚目の写真)

江戸時代にお駕籠八兵衛が一人で作り奉納したと伝えられています。

参道には明治期に造られた常夜燈が多数奉納されています。

 

由緒ですが、赤湯町史・東置賜郡史には載っていません。

「30年くらい前に赤湯の先生が調べたが、よく分からなかった。」

と近所の方から教えていただきました。

 

「春は花窪 夏さか日影 冬ごもりは釜渡戸」と地元で言い伝えられてきた言葉があります。

春に花窪坂から見える残雪の蔵王連峰は絶景です。

2020.06.17:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]