HOME > ◇中川地区の歴史

川樋学校碑パート1

  • 川樋学校碑パート1
  • 川樋学校碑パート1

明治6年(1873)中川小学校の前身となる川樋学校が創立されました。

当初は川樋の松林寺に設け、明治10年(1877)新たな土地(6軒の家が提供)に校舎を建築しました。

今はその跡地に川樋公民館が建てられています。

 

川樋公民館の敷地には明治10年に学校が落成した時の記念碑が残されています。

安山岩の2メートル余りの自然石に、上に「川樋学校碑表」と刻まれています。

「川樋村、新田村、小岩沢村、元中山村の人々相計り、お互いが力や財を出し合ってここに学校を建てた・・・」と漢文で刻まれています。

 

後年、有難みの分からない昭和50年代の子供達が壁打ちをして遊んでいたため、摩耗して判読できない箇所があります。

誠に申し訳ございません。

2020.09.09:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

巳待塔

  • 巳待塔
  • 巳待塔
  • 巳待塔
  • 巳待塔

小岩沢字静御前にあるお堂の参道に「巳待塔」(みまちとう)が建てられています。

碑の右側に寛政三辛亥(1791)と陰刻されています。

左側に「講中」と刻まれていることから、巳待講の講中によって造られた巳待供養塔です。

 

巳待講は日待講の一つで、以前紹介した川樋の金華山講も巳の日に行う巳待講です。

「梨郷村史」には「春・秋二回巳の日に講中の男衆が宿に集まり、蛇の掛図をかけ、灯明・だんごを供えて拝みあげ、終って一献酌みかわしたという。」と講の様子が記載されています。

 

養蚕が盛んな地域では蚕を食べる鼠避けとして、巳(蛇)が信仰の対象になりました。

中川地区には巳待塔が一基、金華山塔が四基建立されており、隣の中山地区には高さ3メートルを越える大きな巳待塔が建立されています。

(画像3・4枚目 中山白髭神社の西側)

 

参考:梨郷村史

2020.09.07:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

静御前

  • 静御前
  • 静御前

小岩沢地区には「静御前」とい珍しい字名があります。

吉田橋があるところです。

 

静御前は源平合戦で活躍した源義経の愛妾です。

文治元年(1185)義経は兄の頼朝に無断で、後白河法皇より任官されたことから追討を受け、弁慶ら従者と共に日本海北陸路から奥州平泉に逃げたとされています。

 

伝説では

義経の子を身ごもった静が義経の後を追いこの地まで来たが、急に産気づき旅の疲れもあり倒れてしまう。

そして子を産み落としたが、生まれた男の子は死産であった。

近くの鏡池で亡き我が子に産湯を使い、お寺に埋葬し、再び義経を追って旅立ったという。

 

静がこの地を去った後、夜になると赤ん坊の泣き声が聞こえるようになった。

村人は供養のため地蔵様を祀り、今も夜泣きを治してくれる地蔵様として信仰されている。

村人は静御前をあわれんで、地名を「静御前」と名付けたという。

 

参考:南陽市史 民俗編

 

 

2020.09.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

川樋 嶋崎明神

  • 川樋 嶋崎明神
  • 川樋 嶋崎明神
  • 川樋 嶋崎明神

川樋地区の岩屋堂にある嶋崎明神には「片目の魚」の伝説があります。

 

鎌倉権五郎※1が川樋の岩屋堂※2の戦いで、敵を追い散らして陣屋があった岩屋堂に戻ったとき、どこから飛んできたか、流れ矢が右の目を射抜いてしまった。

権五郎は矢を抜こうとしたが抜けるのを見た部下は、自分が抜いてやろうとして、右手で矢をにぎり抜こうとしたが抜けない。

そこでわらじを履いた足を額にかけて、ようやく抜いたが、それを見た権五郎は、「この矢を射た奴は、わしによほどのうらみがあるのだろう」といって、右の目を傍らの池で洗うと、池は権五郎の目の傷で真っ赤になった。

それからこの池の魚はみな片目になってしまったという。

 

※1平安後期の武士、後三年の役で源義家に従軍し奮闘する。

※2こぶし荘付近の字名(岩谷堂という表記もある)

 

参考:南陽市史 民俗編

 

嶋崎明神の故事は、江戸時代に編纂された「米沢事跡考」や「米沢里人談」にも掲載されています。Hさんの協力をいただきながら、くずし字を解読中です。

なお、このような鎌倉権五郎と片目の魚の伝説は、東北から関東各地に伝承されています。

山形県内でも山形市本沢の蓮沼、天童市の八幡池、立川町(現庄内町)の翁池など各地に伝わっています。

 

嶋崎明神は明治の中頃まで九尺四方の堂宇が建っていたが、乞食が宿って火事を出し焼失したといわれています。

画像1枚目の鳥居が新しいのは、以前の鳥居は倒壊の危険性が高く、10年程前に新しくなりました。

 

2020.09.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

堅磐橋

  • 堅磐橋
  • 堅磐橋
  • 堅磐橋

三島通庸の土木事業の一環で構築された、上山市川口地内の前川に架けられた堅磐橋(かきわばし)も選奨土木遺産に認定されています。

明治11年(1878)1月に着工し、3月に竣工(竣功)しました。

英国人旅行家イザベラ・バードも同年7月に堅磐橋を渡りました。※

 

この二連のアーチ型の石橋は「川口の眼鏡橋」と称され、竣工した当時は見物人で賑わい、橋の袂には茶屋もできたといいます。

 

案内板にある「石材は同橋上流山手の採石場・・・」とは、天保年間から採石している岩部山石切り場と考えられます。

 

参考:山形県ホームページ

 

※日本奥地紀行に「私はここ(上山)にやってきたのである。ここはそこ(赤湯)から10マイル離れたところで、りっぱな道路を通って・・・」と記載されています。

整備間もない川口新道(新道に架けられたのが堅磐橋)を利用したようです。

2020.08.26:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]