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釜渡戸 子易大明神

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釜渡戸地区の白髭神社境内には石の祠が三基あり、真中の祠に子易大明神が祀られています。

 

この像は彫刻が非常に密で、丁寧に彫り刻んだもので、姿態は頭巾を深々とかぶり、自ら抱いている赤児をやさしく見下ろしている。

この像と一緒に石の堂におさめた木札には次の様に書かれている。

  天下泰平  導師別当 南蔵院法印

  国家豊隠  神主 大坂源七

  天保十三壬寅星

 奉建立大宮子易両大明神※如意満 ?

  村内安全 世話方 大坂今朝次 加藤友弥

  産婦無難 施主 一村中

(なお、実物は旧字体で書かれています。4枚目の画像を見ての通り、現在は文字が消えてしまい、ほとんど読めません。)

天明八年(1788)の水帳をみると、吹原に常楽院屋敷というのがあるが、それから50年ほど後に吉野村下荻の南蔵院が導師となってこの像が建てられたということは、当時南蔵院の勢力が相当深く釜渡戸に延びていたこと、また常楽院と南蔵院とは深いつながりがあったものであろうと想像されるのである。

この石像の背面には

天保十三壬寅三月 川樋村石工??右門源宗?

と記され、この像の建てられた年は、天保十三年(1842)に間違いないことが確認できる。

 

引用:錦三郎著「釜渡戸を中心とした社会科資料」

 

※西置賜郡小国町にある大宮神社と子易神社が合祀された「大宮子易両神社」のこと

2020.08.05:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

古峯神社

  • 古峯神社
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  • 古峯神社

「盗人は背中一つ、火事は土台ごと」と云われ、火災は人災の中で最も恐ろしいものとされてきました。

そんな火伏信仰から栃木県鹿沼市古峯原(こぶがはら)にある古峯(ふるみね)神社信仰、通称「こばはらさま」は現在に続いています。

 

置賜地方は、どこに行っても古峯神社のお札納めの石塔がない所はなく、火事が起きないように守ってもらう信仰は広く深いものがあります。

 

毎年2月頃、古峯代参を送り、代参者が帰ると「御御堂(おみどう)入れ」を行います。

 

参考:南陽市史 民俗編

 

画像1枚目は新田、2枚目は川樋、3枚目は小岩沢、4枚目は元中山、5枚目は釜渡戸の古峯(峰)神社です。この他にもあります。

2020.08.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

元中山 成就院

  • 元中山 成就院

元中山地区の日影集落に、日影の法印様(ホーエンサマ)と呼ばれた「成就院」が平成8年までありました。

 

天台宗成就院は建長二年(1250)法印清観によって開山された羽黒山寂光院※の末寺で、本尊は不動尊、不動明王などを安置している。

成就院があった入り口には寺子屋を開き子弟の教育に当たられた「清由」とういう方の碑が建立されている。

またその後の「清栄」なる方は「智影」と称し。川樋学校の二代目校長をされた方である。

 

引用:ふるさと中川「古老の語る元中山」加藤富雄 記

 

※羽黒山の開祖蜂子皇子が羽黒山頂に建立、明治政府の神仏分離令により廃寺となり、

 出羽神社(現:出羽三山神社)へ神道化。

 

元中山字日影の天満山成就院は山形市柏山寺末の天台寺院である。建長年間、権大僧都(ごんのだいそうづ)法印清観が創建した寺で本尊は不動尊、外に古い本尊仏がある。

境内七十坪、庫裏三十九坪の木造萱葺、檀家一五戸

 

引用:赤湯町史(昭和43年)より

 

2020.08.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

川樋 常善院

  • 川樋 常善院
  • 川樋 常善院
  • 川樋 常善院

常善院はかつて川樋地区にあった寺院で、法印様(ホーエンサマ)と呼ばれていました。赤湯町史では「宝善寺・天台宗」と記載されていますが、江戸時代に編纂された「米府鹿子」では「常善院・当山派」※と記載されています。

 

80年以上前に廃寺になったので地元でも正式な寺院名を知る者は少なく、「ホーエンサマ」で通用します。

(建物は昭和50年頃まであり、持ち家のない世帯が入居していました。)

 

法印様は江戸時代、寺子屋を開いていました。明治6年(1873)川樋学校が創設されると院主の北条智学は訓導として子弟の教育に当たりました。

智学の子、弘善も秀才でしたが病を得てしまい、西村山の慈恩寺から法印が来ていました。昭和10年頃、北条家は離散してしまいました。

 

常善院跡にあった墓石の中には、天文二十年(1551)、また天正三年(1574)と刻まれたものもあり、昭和44年に南陽市指定文化財(考古資料の部)に指定されています。

現在は跡地近くに移設され川樋地区で管理しています。

(今年も6月21日に墓石周りの草刈りを行いました。)

 

川樋下の地蔵様の隣にある智賢沙門碑も法印様に関係した史跡です。

 

※当山派とは、真言宗醍醐寺三宝院を本寺とする修験寺院の組織のことです。

「米府鹿子」によると米沢藩の修験寺院は

 当山派 121院

 本山派   3院

 熊野方   1院

 羽黒派  95院 に分れています。

なお、修験寺院の場合、寺院名と宗派が変ることは珍しいことではありません。

明治5年に修験宗禁止令が出て、修験寺院は宗派の変更を余儀なくされました。

また、室町以前からある古い寺院なので、一宗に統一しているとも限りません。

2020.07.31:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

三山参り

  • 三山参り

中川地区内には「湯殿山」と彫られた石碑も複数建てられています。

画像の石碑には「文化十年」(1814)と刻まれています。

湯殿山参りは湯殿山だけ参詣するのではなく、月山と羽黒山もお参りしたので三山参りとも云いました。

江戸時代には「西の伊勢参り、東の奥参り」といわれ、関東からも多くの参拝者が訪れていました。

 

男子は15歳になると三山参りを行う風習があり、成人となる通過儀礼の意味合いがありました。

何年かごとに村の若者で団体を組み、修験(羽黒派だけでなく当山派・本山派なども含む)の先達(世話・案内)で巡拝しました。

 

三山参りに行く時は、出発1週間は行屋と呼ばれる建物で精進生活を送ります。日中は田畑で働き、食事と寝泊まりを行屋で行います。

肉・魚類は一切食べられず、女子の立入りや家族との面会も禁止されていました。葬式手伝いも、当主や長男が行屋に籠っていたら代理を出す決りになっていたと云います。

当時、三山参りがいかに重要な儀礼であったことが分かります。

 

参考:南陽市史

2020.07.28:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]