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念佛供養塔

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元中山地区の日影にある念佛供養塔です。

人々が集まって念仏を行う念仏講で建立したと考えられます。

念仏講に対し、米沢藩では「念仏講で大酒をしてはならない」と命令が出ていることから、念仏講に直会はつきもので、村人たちの楽しみだったことが分かります。

 

風化が進んで表面が剥げ落ち建立元号は分かりません。

画像2の右上に「七」の文字と、左下に「未」の文字が確認できます。

画像3の下にある文字は「天」(年の異字」のようです。

 

中川地区内で講の石碑が建立されるようになったのは江戸時代中期以降からです。

七年の未年で該当するのは天明七年(1787)丁未(ひのとひつじ)になります。

 

「ふるさと中川」に「念仏塔と刻まれ年号は文政十二年と見える」と記載されていますが、文政十二(1829)の銘が刻まれているのは、隣にある湯殿山碑です。(画像4)

 

隣の石碑と近くにある石碑は倒れていて、詳細は分かりませんでした。(画像5)

 

参考:南陽市史

2021.11.17:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

秋葉山2

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鳥居から続く山道も真っすぐ進むと下って川樋の集落に出るので、山頂に向かう分れ道があったのですが倒木と灌木が生え繁り、どこが道なのか分からなくなっていました。

ここからは山頂目指して藪漕ぎです。九十九折り(つづらおり)の道が出てきますので参考にしてください。(九十九折りの道も倒木と藪でまともに通れません)

標高は560mですが、岩部山に登るより倍くらい疲れます。

 

山頂に祠が2基ありますが、向って左側が秋葉山の石祠になります。

側面に「明治十三年 別當 北條」と刻銘がありますので、川樋の法印様(ホーエンサマ)が関係していたことが分かります。

石灯篭の色が違うのは片方が倒れていたからで、力を振り絞って直してきました。

 

明治政府の神仏分離政策によって各神社で祭神が定められ、宮内の秋葉神社は「軻遇突命(かぐつちのみこと)」、赤湯の秋葉神社は「日本武命(やまとたけるのみこと)」を祀っています。

川樋の秋葉山は戦前から山形県神社総覧に入っていないので、おそらく「秋葉大権現」のままと考えられます。

2021.11.10:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

秋葉山

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川樋地区にある秋葉山です。(画像1の右側の山です)

市内には宮内と赤湯にも秋葉山があります。

同じ名前の山がいくつもあるのは、秋葉信仰が盛んだったからで、いずれも山頂には秋葉神社が祀られています。

 

江戸時代、火除け・火伏せの神様として秋葉信仰が全国に広まりました。

ふもとにある夜燈には「文化三年寅天(1806)」と刻まれています。

江戸時代ですので、神仏習合の秋葉大権現が勧請されたと考えられます。

 

夜燈がある道は藪で行けませんので、神明神社の方から登ります。

三分の一ほど登ると、左側に鳥居が見えてきます。

鳥居の額塚(がくづか)に「元治元子年」と刻まれています。

重機もない時代に、よくこんな山の中に建てたものだと感心します。

なお、鳥居までの道は藪になっています。近くにいくつか洞穴があるので落ちないようお気を付けください。

~続く~

2021.11.10:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

六地蔵塔2

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「于時元禄九天※1霜月※2吉日」が刻銘された六地蔵塔がどちらなのか調べてみました。

 

どちらの塔も下部の幢身(どうしん)に文字が刻まれていますが、風化により判読できない箇所があります。

道路側の六地蔵塔の刻銘を見ると

「六道能化※3(ろくどうのうげ)□□□」画像1

別の面の左下を見ると「十月吉祥日」と読めます。画像2

 

地蔵堂側の六地蔵塔は

梵字で「イー・ウ・カ・□□□」と刻まれ

左側に「木月」と刻まれているように見えます。画像3

文字の大きさから考えると「霜」の一部の「木」のようです。

地蔵堂側の六地蔵塔が元禄九年(1696)の六地蔵と推定します。

 

※1 天は年の異字です。

※2 霜月は11月のことです。

※3 六道能化は地蔵菩薩の別称です。

2021.10.21:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

六地蔵塔

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釜渡戸地区の赤坂にある六地蔵塔(六面幢ろくめんどう・六角幢ろっかくどう ともいいます)は重制(石を組合せて)でできています。

上部にある龕部(がんぶ)に地蔵菩薩が浮彫されています。

手前の六地蔵塔の龕部は隣に置かれています。

重制だと雪や地震でよく倒れるのだそうです。

 

六地蔵(六面幢・六角幢)は地名の由来にもなっています。

南陽市内だと、宮内地区の六角町や金山地区の六角(黒在家六角)などがあります。

 

六地蔵について

仏教では人間が死んだ後、生前の行いによって行き先が、地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天の六道(ろくどう・りくどう)に分れるとされています。

六地蔵は六道の苦しみを救う六体の地蔵様のことです。

2021.10.20:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]