小岩沢地区にある道標(みちしるべ)です。
小岩沢公民館前の坂道を登っていくと右側に建っています。
正面に「花山道」
側面に「子易観音経二井宿近道」
背面に「大正十四年五月建 中川青年團小岩沢支部」
と刻まれています。
市道小岩沢南沢山線は「花山道」という名前だったことを初めて知りました。
この道は子易観音堂までは車で行けますが、観音堂からは標高600mの急な山を通る山道です。
高畠町二井宿を経て七ヶ宿・奥州街道に通じる近道でした。
ラジオやテレビなどなかった江戸時代・明治時代の人々の楽しみの一つに、鎮守様のお祭り、またそのとき神社に奉納した草相撲などがありました。
大勢の見物人が見守る土俵の上で、力自慢の草相撲の力士たちが技を競いあい、勝ち力士は見物人の拍手のなか意気揚々と引上げました。
小岩沢上の市道に面して高さ2メートルばかりの石碑が建っています。
正面に「三代目 秀ノ山門人 小森岩」と刻まれ、台石の左右には軍配、手桶などの相撲道具が浮彫になっている手のこんだ碑です。
この「小森岩」の碑は明治20年4月、門人たちが建てたもので、世話人である唐糸左之助と小櫻藤四郎の名が刻まれています。
参考:市報なんよう 歴史の散歩道 錦三郎 著 平成3年
公民館だよりに「宝山塔」を紹介しようと新田地区の山崎神社に行ってきました。
神社参道入口の石灯篭をよく見ると「寛政十二庚申天」と刻されています。(画像1と2枚目)
寛政十二年(西暦1800年)の新田村は石碑・石造物の建設ラッシュでした。
山崎神社参道のそばにある「百萬返塔」(画像3)もこの年の建立です。
この年は庚申の年、新田庚申塚にも「庚申塔」(画像4)が建てられました。
また、川樋との境にある地蔵堂の近くにある「日本廻國供養塔」(画像5)もこの年に建てられています。
寛政期の米沢藩は上杉鷹山公による農村復興や領民保護など様々な改革が行われていた時期です。
天明の大飢饉(1783~1787)などの凶作で疲弊していた農村が徐々に立ち直り、寛政十一年(1799)の豊作で、少し余裕が出て来たことが石造物の建立から伺えます。