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中川駅

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明治34年(1901)2月15日に奥羽南線※1の赤湯~上ノ山間が開通し、中川地区に汽車が通り始めて120周年を迎えました。

開通当時はまだ中川駅は設置されていませんでした。

中川村※2では駅を設置するにあたり、川樋と中山の間で反目する事態となっていました。

先ず場所の選定、土地の買収等の問題がありましたが、話し合いで郵便局を中山に、小岩沢に駅と決まりました。

当時の駅舎は木造作りで、駅舎の東側にはトイレがあり昔からの建物が今も残っています。

 

参考:ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記

 

※1 明治42年(1909)国有鉄道線路名称制定により奥羽本線となる。

※2 中山村・元中山村・小岩沢村・川樋村(新田含む)が合併して、明治22年4月1日に中川村となる。

 

画像1枚目は駅名標です。レールを再利用しています。

画像2枚目は駅構内です。山形新幹線なら全車両から乗り降りできるほどの長いホームがあります。

 

木造駅舎の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、中川公民館までお持ちください。スキャンしてすぐお返しします。

2021.08.30:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川の歴史

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中川地区内にある「川樋學校碑」と「紀念碑」について、調べた内容をまとめ冊子にしました。

どちらも碑文は漢文で刻されており、今回現代文に訳してみたものです。

「川樋學校碑」の訳文は次回の公民館だよりに掲載します。

興味のある方は、中川公民館にありますのでご覧ください。

2021.08.27:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

馬頭観世音碑

  • 馬頭観世音碑

釜渡戸にある馬頭観世音碑です。

石碑がある場所を、鈴木義一様よりご案内していただきました。

笹薮の中にあり、案内なしではとてもたどり着けませんでした。

急なお願いにもかかわらず、ご対応いただきありがとうございました。

 

ふるさと中川「馬頭観世音碑」加藤和男 記 より記事を紹介します。

 

元、地区共有地のかたすみ、今は荒地の中にあるが、花崗岩に馬頭観世音を刻ませた石碑が倒れている。年号は読み取れないが、明治前と思われる七月□日とある。

この土地は地区全員の馬飼育者にて管理された場所であり、年二回春と秋に馬の蹄切の場所であり、去勢など馬に関する色々な手当て等をする場所でもあった。

時には事故もあり、爪切りの時などの怪我等は、馬ばかりではなく人間にもあったという事である。

2021.07.14:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

百万遍供養塔

  • 百万遍供養塔

川樋の金山道入口にある百万遍供養塔です。

石碑の文字は、上4文字が風化して読み難いのですが「奉納六齊※百萬遍供養」と刻まれているように見えます。

交差点にあることから、道標の役割もあったと考えられます。

 

百万遍とは、人々が輪になって座り、大きな数珠を送りながら念仏を唱え、無病息災や疫病退散を願う百万遍念仏のことです。

 

元中山のホーエンサマ(法印様)が健在の頃は、葬儀の後にホーエンサマを呼んで御念仏を行っていました。

御膳に半紙を敷いて生米一升を盛り、コップに入れた水と小皿に塩を準備しておきます。

ホーエンサマが般若心経を唱えた後、参加者は大きな数珠の外に輪になって、数珠を送りながら御念仏(南無阿弥陀仏:ナンマイダー)を唱えました。そして御念仏が終ってから壇払いをしていました。(私の記憶では)

 

参考:南陽市史 民俗編

 

※六斎は仏教の斎日(仏教の戒律を守る日)のことで、毎月8・14・15・23・29・30日の六日間です。

2021.07.02:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

馬の話2

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前回の続きです。

 

牛馬共に、とても大切な家畜だから、昔は台所の入口近い所に厩(うまや)を作り、米の磨ぎ汁や汁の残りはなるべく温かいうちに牛馬にやるように心掛けた。

また、病気にならぬよう、災難に遭わぬようにと、厩の入口には馬頭観音の御札を貼り、朝の出掛けには味噌汁を御馳走し、暦や御守りを頂かせ、夕方荷を降ろすと必ず木をくり抜いて造った「馬だらい」に沸かした湯を入れ、馬の前足から背、尻を順に洗ってやるのだ。

馬で越した峠ということで「馬越え」※という地名があり、その馬にちなんだ「荷鞍石」、八幡太郎の馬が飲んだという「馬頭清水」がある。

 

引用:おらだ若いとき 安部惣七著

 

※別資料に「馬越え ~ 馬で時沢方面に越えた」と記載があるので、大洞から時沢に抜ける山道のことと思われます。(藪漕ぎ必至の道です。)

荷鞍石をご存じの方は公民館までお知らせください。

 

画像は大洞山です。右側の鞍部を目指すと途中までは車で行けます。

画像3枚目は、入山規制用のチェーンがある場所からの撮影です。

 

2021.06.28:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]