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小滝街道

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米沢街道は鳥上坂を越えれば平坦な街道ですが、宿駅が多いので継立に時間を要し、経費も多くかかります。

 

米沢街道の脇街道として小滝街道※がありました。

この街道は山形領の南館より長谷堂・狸森・小滝・荻・金山・宮内を経て米沢街道の大橋で合流します。

 

この小滝街道は、米沢街道より遠回りになり、峠(標高356m)もあり冬の雪道は不便でしたが、宿駅が少ないために多くの物資が通りました。

また、最上側舟運の基地、山形の船町で揚げた上方物等を山野辺、長谷堂経由で輸送するのに便利でした。

そのため、米沢街道の各宿駅は荷が通らないため難渋し、最上から商人荷を小滝街道へ送らないよう、数々の運動を行いました。

しかし、実際には荷主は経費のかからない小滝街道を通って送ることを望んでおり、相当量の商人荷が小滝街道を通りました。

 

さらに、川樋、小岩沢の宿駅が難渋した原因は、小滝街道より釜渡戸藪道の存在でした。

 

参考:南陽市史・赤湯町史

 

※その時々に応じて長谷堂道・小白府道・宮内街道などと呼ばれていました。

 

画像は小滝地区の風景です。

1枚目は小滝峠に向かう八丁坂、2枚目は小滝明神桜、3枚目は街並みです。

2021.06.11:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

駄賃

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宿駅を通過する際の駄賃やその他経費についての記事を紹介します。

 

まず荷物は37貫から40貫(1貫が3.75kgなので140~150kg)の荷を二つに分けて馬や牛の背の左右につけたらしく、それを一駄といいました。

また背負いの荷もありました。

たくさんの荷物を運ぶ時は宰領(さいりょう)がつき、人馬の監督や経費の勘定等を行っていました。

荷物は馬や牛の背につけられたままの形で宿駅を通過することがあり、これを「附通し」といい、通過料として一駄26文の「鞍下銭」を納めました。

また宿駅に一泊する場合には、泊り料は180文で藁代や飼料代は別にかかり、「庭銭」といって荷物の預り料も支払います。

他国(最上領など)から入ってくる物資には「御役銭」という関税とみられる税金がかかりました。

塩の場合、一斗につき約26文かかりました。

問屋職が預かる形で荷主から受取り、それを後で御番所に届けたようです。

 

参考:南陽市史・南陽市史編集資料第15号

 

江戸時代の物価と現代を単純に比べることはできませんが、そば1杯16文を立ち食いそば350円で計算すると、1文が約22円になります。

ただし、物価の基準を何にするかで大きく変ります。

 

画像は米沢街道沿いに建立された新田地区のお地蔵様です。

2021.06.10:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

宿駅制度

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宿駅制度とは、街道沿いに宿場を設置し、荷物を継立て(バケツリレー方式)次の宿で送る輸送制度です。

宿場には輸送に必要な人馬を常設し、この費用は宿場の負担になります。

(馬代一疋二両の貸付金は4ヶ年年賦で取り立てられます。)

 

そのかわり、公用の仕事がない時には、お金を取って一般(商人荷)の仕事を受けることを許可され、下りが米、上りは塩、綿、海産物等が運ばれました。

 

しかし最上領への街道は米沢街道だけではありません。

公用の物資運搬がない他の街道と対立することになります。

 

画像は街道沿いに建立された石造物です。

1枚目は小岩沢のお地蔵様、2・3枚目は大洞道近くにある道六神様です。

2021.06.08:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

米沢街道8

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鶴城叢書(かくじょうそうしょ)によると、米沢藩では在々の宿場に馬代一疋につき二両あるいは二両二分を貸し付けていたが、中山二十疋・川樋十五疋・小岩沢十四疋・赤湯二十三疋・大橋十五疋・糠野目三十疋とあります。

羽州街道の本駅は駅毎にニ五人二五疋の人馬が常備していることを考えると米沢街道の重要性がうかがえます。

 

江戸後期の文政十年(1827)の村目録によれば、馬の保有数は

 中 山(元中山・釜渡戸含む)82疋

 小岩沢 29疋

 川 樋 52疋

 新 田  3疋 と多くの馬を保有していました。

 

北条郷(現南陽市一帯)で最も多く保有していたのが中山村で、次が上荻村の73疋、金山村の71疋、小滝村の63疋です。

主要街道が村の中を通り、多くの山林を所有している共通点があります。

新田村が少ないのは、山も持っていないこと(五十匁山は昭和になってから所有)と宿駅がなかったことが理由として考えられます。

 

ちなみにこの当時、中川で牛の保有は中山村で2疋いるだけです。

 

参考:南陽市史、赤湯町史

 

画像1・2枚目は小岩沢地区にある馬頭観世音です。

「馬頭観世音」の書体が川樋上の馬頭観世音(画像3枚目)と酷似し、どちらも天保十三(1842)と刻まれていることから、川樋松林寺住職の金毛和尚による書と推測します。

 

2021.06.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

米沢街道7

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大地蔵を過ぎ、村境のお地蔵様から新田に入ります。

新田は「川樋村之内新田」とも呼ばれていて、名が示しているように新開地です。

 

新田には新田桜壇に一里塚がありましたが、どこなのか分かりません。

ご存じの方はぜひ教えてください。

 

江戸時代の街道は鳥上地蔵の前を通っていました。(画像1枚目)

明治13年に新道が出来て、昭和9年の冷害の救済事業で鳥上坂の切り下げ改修工事が行われました。(画像2枚目)

「國道五號線 鳥上坂 昭和十年七月竣工」と浮き出しの銅板が岩にはめ込まれています。(画像3枚目)

昭和27年に国道13号となり、現在の鳥上坂は昭和38年に完成しました。

 

参考:山形県歴史の道調査報告書

2021.06.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]