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馬の話

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米沢藩の北条郷では宿駅の輸送を馬が担っていました。

近代の馬の様子が書かれた記事を紹介します。

 

各宿場には定められた馬持ちが登録されて、荷が入れば自分の仕事は休んで、馬の支度をして問屋に馳せ付け、荷をつけて次の問屋に届けなければならなかった。

馬の支度にも時間がかかる。

厩(うまや)から引き出し、鞍(くら)ずれを起さぬよう、下敷きの筵(むしろ)を着け、荷鞍を置き、尻がい、胸(むな)がいを締め、腹帯を締める。足には藁(わら)の靴を四つの足に履かす。

こうして荷物は一切荷鞍に結い付ける。

慣れない馬子は、腹帯の締加減、胸がい、尻がいの長短の加減が判らぬままに、坂の登り降り、荷の傾きなどが押さえ切れず、荷物が一方に傾いて荷物はいうまでもなく、馬まで倒れることがあった。

 

引用:おらだ若いとき 安部惣七著

 

画像1枚目は川樋上の馬浸場(うまひしゃば)、2枚目は川樋下の馬浸場の跡です。

馬洗場ともいいます。

現在、中川地区で馬を飼っている家はいなくなりました。

馬浸場は水が流れていて雪が融けるので、冬の雪捨て場に利用されています。

2021.06.25:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

原の追分石

  • 原の追分石
  • 原の追分石

金山地区、原にある追分石です。

釜渡戸道(県道238号)と小滝街道(県道5号)の合流地点から、小滝街道を北に進み、原橋の手前から右の道へ入ると見えてきます。

追分石には「左 太郎前 小滝」「右 中?」と刻まれています。

「中」の下の字は削れていて判読できません。

 

「中川」もしくは「中山」であれば、釜渡戸道と小滝街道の合流地点にあるはずです。

追分石から右に行っても太郎地区に行くので、追分石の場所が変わったのか?釜渡戸道の合流地点が変わったのか?不明です。

 

2021.06.17:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

釜渡戸藪道2

  • 釜渡戸藪道2
  • 釜渡戸藪道2

願上書に対して、藩では両者より言い分をきいている。

延享元年(1744)三ヵ宿の言い分に道理があり、釜渡戸道は藪道(やぶみち)であり、商人荷附通す道筋ではないが、中山の産物や飯米は、御役屋で御判をうけて通ってもかまわないという釜渡戸道差留を下している。

しかし相変わらず釜渡戸道の商人荷通行は続いていたようであり、藪道通過の詫証文が残されています。

 

参考:南陽市史

 

画像は金山地区、原の釜渡戸道(県道238号原中川停車場線)です。

2021.06.16:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

釜渡戸藪道

  • 釜渡戸藪道
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  • 釜渡戸藪道

宮内から荷を出す場合、赤湯を経て米沢街道を通らずに、宮内から金山・釜渡戸を越えて中山へと行く道があり釜渡戸道と呼ばれていました。

米沢街道の赤湯・川樋・小岩沢の三つの宿駅を通らずに、次に宿駅の中山へ行くことができます。

三つの宿駅の駄賃を払う必要がないため、多くの荷がこの道を通りました。

(釜渡戸は中山村なので、新たな通行料を取ることは出来ませんでした。)

 

そのため、赤湯・川樋・小岩沢の三宿では、中山・宮内両村に対して「諸荷物釜渡戸通り附送り差留」についての願上書を差し出しました。

 

引用:南陽市史

 

画像1枚目は市道元中山中山線から釜渡戸道の入口です。右に曲がると(画像2枚目)花窪を通って釜渡戸に抜けます。

 

釜渡戸分校が在った場所の裏(字松ケ沢)から中山へ抜けたという話もあります。

街道沿いの村境にお地蔵様を建立することが多いことから、花窪地蔵堂(画像3枚目)のある花窪から釜渡戸へ通る道(県道238号原中川停車場線)が主に用いられたと考えられます。

2021.06.15:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

小滝街道

  • 小滝街道
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  • 小滝街道

米沢街道は鳥上坂を越えれば平坦な街道ですが、宿駅が多いので継立に時間を要し、経費も多くかかります。

 

米沢街道の脇街道として小滝街道※がありました。

この街道は山形領の南館より長谷堂・狸森・小滝・荻・金山・宮内を経て米沢街道の大橋で合流します。

 

この小滝街道は、米沢街道より遠回りになり、峠(標高356m)もあり冬の雪道は不便でしたが、宿駅が少ないために多くの物資が通りました。

また、最上側舟運の基地、山形の船町で揚げた上方物等を山野辺、長谷堂経由で輸送するのに便利でした。

そのため、米沢街道の各宿駅は荷が通らないため難渋し、最上から商人荷を小滝街道へ送らないよう、数々の運動を行いました。

しかし、実際には荷主は経費のかからない小滝街道を通って送ることを望んでおり、相当量の商人荷が小滝街道を通りました。

 

さらに、川樋、小岩沢の宿駅が難渋した原因は、小滝街道より釜渡戸藪道の存在でした。

 

参考:南陽市史・赤湯町史

 

※その時々に応じて長谷堂道・小白府道・宮内街道などと呼ばれていました。

 

画像は小滝地区の風景です。

1枚目は小滝峠に向かう八丁坂、2枚目は小滝明神桜、3枚目は街並みです。

2021.06.11:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]