昭和49年には跨線橋ができ、線路を渡って向い側に行っていたのが、階段を上がって向い側ホームに、更に国道まで出る事が出来るようになり大変便利になりました。
しかし、国鉄の機構改革合理化により、乗客の少ない駅は無人化すると通達があり、無人化反対で国鉄と交渉するも叶わず、昭和50年に無人駅となってしまいました。
参考:ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記
画像は跨線橋と北側入口です。
跨線橋は駅利用者だけでなく、通勤ルートとしても重宝されています。
無人化になる前の駅の様子です。
駅舎は待合室と事務室に分れていて、待合室はガラス張りになっており、切符売り場と小荷物扱いとに分かれ、冬になると待合室の真ん中にダルマストーブが置かれて何時も赤々と燃え暖をとられておった。
事務室には常時5~6人の職員がおり、列車が来る時間を見て、切符を売り改札をしたり、小荷物扱いと忙しく働いていた。
駅舎の西側には保線支区の事務室が建てられてあったが、米沢保線支区中川班といって常時6~7人の職員が勤めていた。
参考・写真転載(画像1・画像2)
ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記
木造だった駅舎は国鉄時代の昭和61年に、貨物コンテナを再利用したダルマ駅舎に変わりました。
建物財産標に「昭和61年3月29日」と標されています。
鉄道が敷かれると、物流は牛馬から貨車輸送が担うようになりました。引き込み線も中川駅の南側に一本、北側に二本あり、北側の引き込み線一本は列車通過の待ち合わせと荷物の積み降ろしに利用しました。
自動車の無い時代にはほとんどが貨車輸送でした。青果物に始まり、肥料木炭等が多く、終戦後は川﨑電気KK(現:㈱かわでん)へ大理石※が原石のままで送られてきました。
国道13号道路側の引き込み線からはぶどうの木箱詰め、岩部山から採石した中川石を山から運び、貨車で東京方面に送っていました。
参考:ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記
※昭和中頃まで配電盤のパネルには、絶縁性に優れる素材として大理石が使われていました。
川﨑電気の工場にトロッコで運び、切断加工を行っていました。
画像1枚目は北側の引き込み線跡、画像2・3枚目は跨線橋からの眺めです。
引き込み線のレールが残っているのが見えます。
明治34年(1901)2月15日に奥羽南線※1の赤湯~上ノ山間が開通し、中川地区に汽車が通り始めて120周年を迎えました。
開通当時はまだ中川駅は設置されていませんでした。
中川村※2では駅を設置するにあたり、川樋と中山の間で反目する事態となっていました。
先ず場所の選定、土地の買収等の問題がありましたが、話し合いで郵便局を中山に、小岩沢に駅と決まりました。
当時の駅舎は木造作りで、駅舎の東側にはトイレがあり昔からの建物が今も残っています。
参考:ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記
※1 明治42年(1909)国有鉄道線路名称制定により奥羽本線となる。
※2 中山村・元中山村・小岩沢村・川樋村(新田含む)が合併して、明治22年4月1日に中川村となる。
画像1枚目は駅名標です。レールを再利用しています。
画像2枚目は駅構内です。山形新幹線なら全車両から乗り降りできるほどの長いホームがあります。
木造駅舎の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、中川公民館までお持ちください。スキャンしてすぐお返しします。