江戸時代の米沢街道(最上街道)沿い、赤湯と芯新田の境に地蔵堂があり、中に地蔵尊二体が安置されています。
伝説では、大化二年(646年)もしくは大同二年(807年)に建立したと伝えられていますが、残念ながら地蔵様を祀る宗教文化は後世のものになります。
地蔵堂の辺りはぶどう園が開墾されるまで人家はなく、草茫々の原野が広がっていたので、夜に通ると狐に化かされ買物の肴を取られた話も残っています。
参考:ふるさと中川「鳥上坂地蔵尊」錦三郎 資料
岩部山第29番の観音様は第28番・第30番の観音様から離れた場所にあり、第5番と第6番の観音様の間にあります。
北山道から100mほど登った場所で山の麓になります。
その理由は33の観音様で唯一の馬頭観世音菩薩であることが関係していると見ています。
旧中川村には米沢街道の宿駅が中山・小岩沢・川樋の3ヶ所に設置され、伝馬がいました。馬は農耕馬として、山からの材木出しとして大切に飼育されていました。
文政十年(1827)の村目録によれば、馬の保有数は
中山(元中山・釜渡戸含む) 82疋
小岩沢 29疋
川 樋 52疋
新 田 3疋
となっています。
新田村が少ないのは宿駅が置かれていないことと、山を保有していないことが理由です。
(五十匁山は昭和になってから譲り受けました。)
ちなみに牛は中山に2疋いるだけです。
大切な馬を供養するため、中川地区内に複数の馬頭観世音の石碑が建立されました。
川樋では分かるだけで上と下の2ヶ所にあり、どちらも山から木材出しをした道の近くにあります。上の馬頭観世音(画像の左側)は米沢街道沿いで、近くには馬浸場(うまひしゃば)が残っています。
第29番の馬頭観世音菩薩もかつて木材出しに使ったであろう緩やかな山道を見下ろす場所にあります。
また、村民に一番身近な観音様であることから、参拝しやすい生活道路の近くに彫られたと考えます。
参考:南陽市史・ふるさと中川
国道13号を赤湯から山形に向い、鳥上坂を越えると右側に独立丘陵が見えます。
中世には野中森館があった場所で、地元では「森こ山」と呼んでいます。
(字名が中ノ森なので、中ノ森館跡とも云います)
「米沢事跡考」によると、野中森は粟野十郎藤原義広の後裔(子孫)で粟野十郎左衛門尉宗次※1の父が隠居した館と伝えられています。
周囲を大谷地に囲まれ防御としていました。
享保の絵図には「蒲生氏※2の舘跡」と記してあり。近くには「首塚」と記されていますが、首塚の場所は定かではありません。
参考文献:赤湯町史・山形県歴史の道調査報告書
※1 16世紀の伊達氏家臣で赤湯にあった二色根城主と云われています。
※2 天正19年(1591)奥州仕置により伊達氏は転封、蒲生氏の領地となりました。
以前紹介した宝山塔の大沼家は蒲生氏の家臣で、この地に残り百姓になりました。
6月19日に紹介した新田の山崎神社境内に宝山塔が建立されています。
江戸時代、減免を認めさせた大沼金右衛門(剃髪して宝山と号す)への報恩塔です。
新田地区はその名のとおり、江戸時代に新たに開拓された村で川樋新田と称していました。
新しく田畑を開発した村は収穫高が少なく、本田の村より年貢が安いのが普通でしたが、米沢藩の厳しい検地により本田の川樋村と同じ年貢率(税率)でした。
そのため、新田村の農民たちの生活は苦しく、食べるものも事欠く状況でした。
時の肝煎(村長)大沼金右衛門は米沢藩庁に年貢減免を何度も嘆願しました。
やがて年老いた金右衛門は肝煎を譲り、お坊さんとなって「宝山」と名乗り、領内の神社仏閣にお祈りして回りました。
その甲斐あって、寛文七年(1667年)に米沢藩は新田村の窮状を認め、年貢率23%を13%に減免する命令が出ました。
村人たちは藩庁へのはばかりがあり、公けに感謝することは出来ませんでした。
約200年後の嘉永六年(1853年)、金右衛門の恩を忘れないように「宝山塔」を建立しました。
参考:南陽市史・市報なんよう(平成29年1月1日号)
2枚目の画像は神社入口の遠景です。