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小岩沢 小森岩の碑

ラジオやテレビなどなかった江戸時代・明治時代の人々の楽しみの一つに、鎮守様のお祭り、またそのとき神社に奉納した草相撲などがありました。

大勢の見物人が見守る土俵の上で、力自慢の草相撲の力士たちが技を競いあい、勝ち力士は見物人の拍手のなか意気揚々と引上げました。

 

小岩沢上の市道に面して高さ2メートルばかりの石碑が建っています。

正面に「三代目 秀ノ山門人 小森岩」と刻まれ、台石の左右には軍配、手桶などの相撲道具が浮彫になっている手のこんだ碑です。

この「小森岩」の碑は明治20年4月、門人たちが建てたもので、世話人である唐糸左之助と小櫻藤四郎の名が刻まれています。

 

参考:市報なんよう 歴史の散歩道 錦三郎 著 平成3年

2021.10.13:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

寛政十二年の新田村

公民館だよりに「宝山塔」を紹介しようと新田地区の山崎神社に行ってきました。

神社参道入口の石灯篭をよく見ると「寛政十二庚申天」と刻されています。(画像1と2枚目)

 

寛政十二年(西暦1800年)の新田村は石碑・石造物の建設ラッシュでした。

 

山崎神社参道のそばにある「百萬返塔」(画像3)もこの年の建立です。

この年は庚申の年、新田庚申塚にも「庚申塔」(画像4)が建てられました。

また、川樋との境にある地蔵堂の近くにある「日本廻國供養塔」(画像5)もこの年に建てられています。

 

寛政期の米沢藩は上杉鷹山公による農村復興や領民保護など様々な改革が行われていた時期です。

天明の大飢饉(1783~1787)などの凶作で疲弊していた農村が徐々に立ち直り、寛政十一年(1799)の豊作で、少し余裕が出て来たことが石造物の建立から伺えます。

2021.09.10:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

北赤湯信号場

昭和38年に設置された新田地内にある北赤湯信号場です。

昭和43年には赤湯駅~北赤湯信号場間が複線化されました。

まだ、中川駅方面は単線なので、対向列車の待ち合わせに使われています。

 

参考:山形県の鉄道輸送 山形県

 

画像1枚目は北赤湯信号場

画像2・3枚目は新田地内の複線区間です。

2021.09.07:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川駅5 紀念碑

小岩沢地区の岩崎神社建物の傍に大きな石碑が建立されています。

鉄道貫通・停車場創立の紀念碑(記念碑)です。

先月、漢文で刻された碑文を訳して冊子にしてみました。

内容は江戸時代の小岩沢宿駅の様子や駅開業までの苦労などが記されています。

駅予定地の土地価格が暴騰し、買収停止命令が出されたことを初めて知りました。

碑文の最後の方に「後昆知驛之所以創立」(訳:駅創立の由緒を後の世の人は知る。)とあり、まさに令和の時代になって知ることができました。

 

なお現在、神社建物の屋根工事で石碑近くに行くことはできません。

2021.09.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川駅4

昭和49年には跨線橋ができ、線路を渡って向い側に行っていたのが、階段を上がって向い側ホームに、更に国道まで出る事が出来るようになり大変便利になりました。

しかし、国鉄の機構改革合理化により、乗客の少ない駅は無人化すると通達があり、無人化反対で国鉄と交渉するも叶わず、昭和50年に無人駅となってしまいました。

 

参考:ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記

 

画像は跨線橋と北側入口です。

跨線橋は駅利用者だけでなく、通勤ルートとしても重宝されています。

2021.09.02:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]