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米沢市窪田町東江股の板碑(その1)

  • 米沢市窪田町東江股の板碑(その1)
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板碑は鎌倉時代中期頃から造られ始め南北朝に全盛期を迎え、室町時代そして新しいものとして安土桃山時代のものがありますが、江戸時代には造られなくなります。武士の間に広まった板碑は信仰と深い関係があり、貴族から武士の政権となった鎌倉時代から徳川家康が江戸幕府を開くまでのあいだ戦乱の続く時代で、戦に直接参加する武士達は、常に死と直面していたのです。いつ死ぬかわからない不安、そして生きるためには人を殺さなくてはならない罪の意識、こうした生活感情と社会的背景が当時広まりつつある浄土教の思想と結び付いて武士の間で盛んに板碑が立てられたと考えられるようです。その後豊臣秀吉の天下統一後は社会が比較的安定してきた為、仏に救いを求める意識が薄れ板碑は造られなくなったと考えられているようです。移住した我が家の屋敷神のある道路反対に地蔵堂がありその中に2基の板碑があります。東江俣集落が古くからあったという証でもあります、この集落には他にあと2か所ありました。

2017.06.06:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

上杉鷹山公とケネディ

  • 上杉鷹山公とケネディ
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上杉神社を通る通勤朝散歩を初めてからひと月ほどたつ、鷹山公の像の横にジョン・F・ケネディの長女キャロラインさんスピーチの版が建っている、ケネディは『日本で最も尊敬する政治家はだれですか』との質問に「上杉鷹山です」と・・そして2013年11月、駐日米国大使に就任した長女キャロライン・ケネディ、「父ジョン・F・ケネディ元大統領が、江戸時代の米沢藩の名君とされる上杉鷹山を尊敬し、就任演説に代表される考え方に影響を与えた」と述べている。2014年9月27日『なせばなる秋祭り』に米沢市を訪問しスピーチしている要約が刻まれています。私の母は米沢市万世で育ち、万世小学校を出ていて、小さい時から鷹山の『なせばなる・・』を教わったといい、私が幼少時にその話を聞かされた、キャロラインはお父さんからこの『なせばなる』を聞かされたのね・・これ見て、私は孫にこの話を伝えようとふと思った・・しかし像の手前にある石、、”石臼”のようですがポールに鎖でつながっている・・なんであるんだろうか?気になる???

2017.03.28:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

松岬神社(米沢市)

  • 松岬神社(米沢市)
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朝お通勤前、松岬(まつがさき)神社前を通ると猫が集まる、どうもここをねぐらにしているようです、この神社は明治35年(1902)に上杉神社から上杉鷹山を分祀し大正元年に建立、その後米沢初代藩主”上杉景勝”、その重心”直江兼続”鷹山の師、鷹山改革の補佐の合祀と祭神6柱となっている。最近猫が付いてくるように、たまに餌やるから?奥の狛犬の横によく猫がいる、狛犬とあるけど、狛犬の起源は、古代インド、守護獣としてライオンの像を置いたのが始まりといわれて、古代エジプトなどでも神域を守るライオンの像がある、狛犬はインドから中国へ伝わり、中国から日本へ伝わってきたのは飛鳥時代といわれています。平安時代に獅子と狛犬の像が一対となっておかれるようになり、もともとはそれぞれを獅子と狛犬と呼んでいましたが、現在は両方を合わせて「狛犬」と呼ぶようです、しかしライオンはねこ科なんだから犬ではないんだけどね・・そこんとこがわからない???じじの独り言

2017.03.24:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

寳領塚古墳(ほうりょうづかこふん)

  • 寳領塚古墳(ほうりょうづかこふん)
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米沢市窪田町東江股に移住、そこから米沢市内に行く米沢南陽道路の側道沿いを走ると気になる森があり説明版に古墳とありました、米沢市窪田町窪田字北宝領・・「寳領塚古墳」は、松川(最上川)と鬼面川のほぼ中間の扇状地性沖積地に築かれた全長約80mの前方後方墳で、前方後方墳としては東北地方最大級、説明版には前方部の長さ40m、幅50m、後方部の長さ40m・幅44mとされ「稲荷神社」が鎮座している。平成元年の調査で墳丘は3段、葺石や周溝の存在が確認されたという。出土物は土師器などであり、築造時期は4世紀後半頃と推定されている。平成3年に米沢市指定文化財に指定されている。置賜にも多くの古墳がありいつかはみな廻ってみたいです。

2017.02.06:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

新発田城

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2017年1月3日新潟三越のターシャ展行く途中、1時間ほど時間に余裕があり気になっていた新発田城見学によってみました、別名「あやめ城」とも呼ばれ、初代新発田藩主溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)侯が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直(のぶなお)侯のときに完成したそうで、 山城とちがって、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城です。石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、北国の城特有の海鼠壁は全国的にも珍しいものです。と看板に記載があります。。表門前にはこの地が誕生の堀部安兵衛の像がありました、赤穂義士の討ち入りで中心的な役割を果たした有名な安兵衛さんですね、のぼり旗に”忠臣蔵を大河ドラマへ”とありました、各地の義士にかかわる市が活動しているようです。

 新発田城は本丸、二の丸、三の丸と、堀や石垣に囲まれ、新発田川の水を巡らせた想像以上の大きいものでした、案内看板には11棟の櫓と5棟の門が並び壮観な景観を呈していましたとあり、中でも、天守閣の代わりを果たしていた三階櫓、3匹の鯱を配するという独特の櫓で、全国にも例がない大変珍しいものとあります。 明治初年に撮影した古写真が19枚あり、絵図も残っている看板に掲載されているのでまたゆっくり観にきたいと思います。

2017.01.05:li-no:コメント(0):[歴史探訪]