Atelier Li-no

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米沢市窪田町東江股に移住、そこから米沢市内に行く米沢南陽道路の側道沿いを走ると気になる森があり説明版に古墳とありました、米沢市窪田町窪田字北宝領・・「寳領塚古墳」は、松川(最上川)と鬼面川のほぼ中間の扇状地性沖積地に築かれた全長約80mの前方後方墳で、前方後方墳としては東北地方最大級、説明版には前方部の長さ40m、幅50m、後方部の長さ40m・幅44mとされ「稲荷神社」が鎮座している。平成元年の調査で墳丘は3段、葺石や周溝の存在が確認されたという。出土物は土師器などであり、築造時期は4世紀後半頃と推定されている。平成3年に米沢市指定文化財に指定されている。置賜にも多くの古墳がありいつかはみな廻ってみたいです。


2017年1月3日新潟三越のターシャ展行く途中、1時間ほど時間に余裕があり気になっていた新発田城見学によってみました、別名「あやめ城」とも呼ばれ、初代新発田藩主溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)侯が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直(のぶなお)侯のときに完成したそうで、 山城とちがって、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城です。石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、北国の城特有の海鼠壁は全国的にも珍しいものです。と看板に記載があります。。表門前にはこの地が誕生の堀部安兵衛の像がありました、赤穂義士の討ち入りで中心的な役割を果たした有名な安兵衛さんですね、のぼり旗に”忠臣蔵を大河ドラマへ”とありました、各地の義士にかかわる市が活動しているようです。

 新発田城は本丸、二の丸、三の丸と、堀や石垣に囲まれ、新発田川の水を巡らせた想像以上の大きいものでした、案内看板には11棟の櫓と5棟の門が並び壮観な景観を呈していましたとあり、中でも、天守閣の代わりを果たしていた三階櫓、3匹の鯱を配するという独特の櫓で、全国にも例がない大変珍しいものとあります。 明治初年に撮影した古写真が19枚あり、絵図も残っている看板に掲載されているのでまたゆっくり観にきたいと思います。


小松幼稚園のとき、天神森に遠足した記憶がある、そのころは羽前小松駅の東側は田んぼだけであった、現在は町の施設が集まるところであるが、1801年小松村の絵図が残っており、そのころは更にまわりはなにもなくなくぽつんと田んぼの中に天神がある、町の調査資料に米坂線工事のときの天神写真があった、中学3年のとき小松駅でSLラストというので撮ったとき天神が写っている写真があるがいまより森がすっきりしていますね、資料によると『東北最大級の前方後方墳。 天ッ神少彦名命(亀森天神)・菅原道真(天満天神)の二座を祀る。 天満宮別当であった大円寺所蔵の縁起によれば、平安時代天徳4年、分霊を勧請して創始され、延徳元年に伊達尚宗、享禄2年に小松城主桑折播磨守、万治2年に上杉綱勝による社殿寄進が記録され、中世には長井氏、伊達氏、上杉氏の代々領主の崇敬を集めた。 かつての小松は、商業や文芸が盛んな宿場町として大変栄えており、天満宮は、中世には連歌の神様として盛んに信仰されていた。しかし、江戸時代以降、連歌の衰退と共に社殿も縮小し、明治の火災以降、再建されず石祠のみとなって現在に至る。』 現在地元有志により天満宮神輿が復活し精力的に活動している、子供が小さかった頃、東神奈川浦島に住んでいて、この辺、祭りといえば御輿、仕事でいけないんだなんていうと、”バカヤロー、仕事なんかしてんじゃねー、年一回だぞー”と威勢のいい御輿馬鹿がたくさんいました。


アルバム整理で見つけた小松町の航空写真、父に聞いたがいつ頃なのか、どうして持ってるのかも覚えていないそーだ、この写真、小学校の木造校舎があった場所がグランドになっているから昭和43年以降で周りの状況から昭和50年までの頃と思われる、今年フレンドリーで購入した1801年の小松村絵図と比較すると面白い、1801年の道はほぼ残っており、上小松の大円寺に郷校を開いたとある小学校前身も天神様も絵図に描いてある。昭和40年頃の小学校の写真がある、現在もこの門と松の木だけは残っている、よく残してくれましたね、同じ場所での新旧写真撮り、下校中の子供たちにあうと、みな『こんにちわ!』と挨拶する、これっていいですよね。この子達にも変わらぬ思い出の場所残してほしいと思います・・


我が母校となる小松小学校は明治5年の学制発布の前年9月18日、上小松の大円寺に郷校を開いたとあり明治4年創立となる、先輩に直木賞作家の井上ひさし氏がいます、「♪南に吾妻、西飯豊、東はるかの蔵王山、みわたす峰もおごそかにィーー♪」校歌は意外と覚えているもんです、アルバム整理で昭和16年父卒業アルバムを見つけました、グランドから天神森古墳の木が見えますね、このグランド、今は校舎になっていて昔の校舎は現在のグランドとなっています、わたしが小学校6年(昭和43年1968年)のとき木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎にと移りました、古い校舎も一部残っていて新旧とちゃんぽんで使用してました、昔の校舎、グランドでの運動会、体育館は2箇所あって小ぶりの北体育館でよくやっていた「つなぎおに」記憶によく残っており懐かしいです。大円寺は今も小学校の北西1kmほど先にあります。


『上小松は上杉藩政時代より山形県南部の経済の中心であった。新潟方面や最上川を利用した江戸大阪との取引などが、小松においても盛んに行われていた。とりわけ、小松の馬市は全国的に有名であった。この市神は、商業の発展を祈る地域の人々によって、現在の山形中央信用組合の北側に建立された。碑には天明三年(1783年)正月吉日の名が刻まれ、約220年前のものである。現在の場所には、昭和42年に金子十三郎氏が中心となり、移設されたものである。』  -掲示看板より-(昭和44年川西町文化財指定)  この市神様、現在は十印菓子店の南側にあり、現在も11月5日には地域商店の方たちにより神事が行われ、大切に守っています、7月末の虫送り、8月末の神送り神事のときには市神大明神の提灯が飾られ、この通りの前は今も昔と変わらぬ提灯行列が通ります。

 


豪族とは、飛鳥時代より前から日本各地にいた有力者のこと、この豪族と呼ばれた人たちは、貴族として政治に参加する人もいれば、そのまま地方に残って、中央から派遣された国司の下で地元を管理したりしたようで、豪族は、大昔からの由緒正しい土地の人のことですが、農民出身の有力者や武士も同じような感じで地方を管理するようになる地方の親分、そんな豪族たちの家は『豪族屋敷』というわけで、実家のある小松から米沢に行く途中の中郡地区にいい感じの屋敷と堀があるところがあります、上杉が会津から米沢に移った時、新発田から来た武士一族とあります、横の田んぼには一族の墓ですか、直江兼続が考案した、米沢藩独特の墓石万年搭が並んでます、万年搭は中がくりぬかれ、側面に穴があけられた形の石の上に、屋根をのせた形で、有事の際に屋根を取り外しバリケードや、洪水の際に土をつめ土嚢となるように考えられたものでした。この地域に万年塔は、まだあちこちに見られますが、だいぶ風化して欠けているようです・・


8日が宵宮祭であったが雨で中止、9日に行くことにしたが、高畠町では小室等に太田裕美さん出演のイベント、長井市でも音楽,食、手作り作品のイベントがあり、どこに行こうか悩んでしまう、結局、幼馴染の歴史オタクと昼は鮎貝八幡神社獅子舞へ、午後は高畠にいって小室さん太田さんの懐かしい曲を聴いて一旦自宅に戻り、夕飯後また鮎貝の獅子を観にいく、この舞は、「七五三の舞」と呼ばれ、足の運び方が独特、7歩進んで5歩さがり、3歩で元の姿勢に戻る足の動きから、その名前が付いているが、その元祖といわれている、総代の方と話も出来てなかなかよかったです、鮎貝八幡宮の獅子頭には雄獅子と雌獅子があり、舞にでるのは真っ白なたて髪に、赤い耳の雄獅子です、神社境内には3対の獅子頭があり古いのは江戸時代のもの。重さ約二貫匁の7.5kgもあり七五三の舞を3回繰り返すには、十分な練習を積まないと舞えないそうです。今の獅子頭素材はヒノキと聞きました、そういえばここには下馬がなく聞いたが、昔からないんだそうです、理由は不明、それとどうも古太が先に行ったような?しかも太鼓とかかれた提灯があるなど、他とまた違うところを発見、これがチョットウレシイ。。鮎貝神社は城跡でもあり堀や遺構が多く残っておりまたじっくり観にいこう・・


先々週の米沢ブラ散歩・笹野地区めぐりで通りかかった大壇原地内は、米沢藩主の葬儀が行われた場所で、第3代藩主・綱勝から第7代・宗房までの5名の藩主と1夫人の葬儀が行われました。現在はそばを植えた畑となっていいました、看板には万治元年(1658年)に第三代藩主・上杉綱勝夫人(媛姫)の死去に際し江戸から遺骸を林泉寺に移送して塵焼(火葬)した後に、大壇原で葬儀を営んだのが最初で、寛文4年(1664年)5月7日に三代・綱勝が江戸麻布邸で死去すると、廟所敷地内で塵焼を行い、笹野大壇原で葬儀が執行され、それが藩主葬送の慣例となりました。しかし、9代・上杉治憲(鷹山)の時代に葬法が土葬に転換すると葬儀は廟所で行うようになり、大壇葬場での葬儀はなくなります。江戸時代の藩主葬送の歴史を示す重要な存在とあるが、現存する遺構などは特になにも無いようです、


秋晴れの日、松川(最上川)の上流・直江石堤を訪ねた。会津120万石から米沢30万石にに領地を削られ、上杉氏の本城となった米沢、大勢の家臣団が移り住みました、城下に収容しきれなかった下級武士は郊外の南原・東原に配置し、荒地の開拓・用水・治水、城下の用水となる御入水堰、猿尾堰、帯刀堰など開削・洪水から米沢城下を守るため松川に谷地河原堤防と蛇土手を築いたということです、藩士の奉仕にによる修復、特に、文化9年(1812)の工事は、延べ9,727人の藩士を動員した大工事と記録されてます。昭和61年に市の史跡に指定され、きれいに整備された公園になってます、何か機械で修復なのか工事してました、それにしても昔は機械も無くほとんど人力の大工事にただただ驚きます、それに藩士による奉仕とは、そこそこ不満もあったでしょうにね・・米沢を築いた先人の苦労は並大抵のものではないと痛感、治水の大切さを教えてくれた史跡でもあります・先人の皆様こうして「直江堤公園」として後世に名を残したことは救いでしょうか?。もう少し工事責任者とか下級藩士の奉仕者たちも名も書いてあげればいいとふと思ったじじの感想でした。 


現在の本堂は天保14年(1843)江戸時代の末期に再建、建築図面が当時の大工棟梁の子孫宅に大切に保存されているということで、完全な図面が現存しているのは珍しいようです、茅葺の屋根がいまも維持されていて重厚な趣を与えている、置賜特有の月夜燈もある、門前のところには笹野の里に伝わる笹野彫のお店があり、観音様参拝の縁起物として農民の手によって伝承されてます。本殿内に獅子頭がありました、例祭のときにまた訪れようと思います、


米沢ブラ散歩、『さいかち檀と六面地蔵』という看板があり、いい雰囲気でサイカチの老木が茂ってたので写真撮り、さいかちは樹齢数百年というような巨木もあり木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いられる、豆果は?莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で利尿薬として用いるとある。またサポニンを多く含み古くから洗剤として使われ、莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつては石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである(煮出して使う)。棘も、腫れ物やリウマチに効くとされ、豆はおはじきなど子供の玩具としても利用されるとあります。利用価値のある木を植えているものです。 立派な六面地蔵があります、ここは三道が一箇所で交差し六道の基点となるところ、この地方で現存する唯一の辻と記載してある、六道に迷える人々を救う六体の地蔵尊を表し、この地を往来する旅人や住民の幸せを願って建立されたものとなってます安永の頃、南側には大きな安山岩を野積した土塁のある文殊堂もあった。


9月25日の日曜久々の晴れ、幼馴染が置賜民俗学会で小国を廻るというので付いて行った、小国町は父の仕事場であり、小学の低学年頃はよく休みの日についていった、昭和30年代後半のころの話、小国に行くには険しい山道がたくさんあった、中でも宇津峠は、まだ九十九折の砂利道で対向車がくると崖のすれすれのところで待機して、車も性能が悪く、オーバーヒートしたりして、羽越水害のあった昭和42年以降道はよくなり、今では実家のある小松から30分程度でついてしまう、町も水害後に一変して昔の面影はまったくない、置賜の民族訪ねは、米沢女史短大の教授案内で、大宮子易両神社から産屋、越後米沢街道を廻る、越後米沢街道はバードの通ったところを走破しようとは思っていたがいまだ小松の中だけしか歩いていない、黒沢峠も初めてだった、ネットではよく見ていたが、ここはゆっくりじっくり徒歩で歩こうと考えている、興味が湧いたのが産屋、子易神社のすぐ近くにあり、現存するものは全国でも珍しいという、昭和43年が最後の使用と記載されていた、昔お産は家が穢れるというので、みな産屋で行いましたということです、都度村総出で組み立てて、産後7日間はかわるがわる部落の人が世話し、終了するとまたばらしていたそうです、今年87歳の母に聞くと大正時代はみなそうだったらしいが昭和天皇になり考えが異なり、母の世代、昭和一桁からはみな自宅お産となったと聞きました、昭和の43年まで使用されていたこの地区特別のような気がします。この子易神社は父が私たち3兄弟、そして私の子、私の孫まで欠かさずお参りしていたそうで、私は2年前3人目の孫が生まれたときに始めて父とともにお礼参りに来ました、境内に花子と太郎(昔のワープロソフトを思い出す)石があるが花子は河原から出てきた自然石、太郎は加工したもので何れも昭和の比較的新しいものです。


  上杉家が会津120万石から米沢30万石に移封になった際、城下に家臣全員を収容しきれなかったため、防衛の役割を与え下級武士を郊外に配置、荒地の開墾なども行わせた、この武士達は原方衆(はらがたしゅう)と呼ばれ、主は野を耕し、女達は機を織って生計をたてながらも馬を飼い武芸に励んだという、屋敷裏手は広い畑と果樹、前庭にはウコギの生垣がある典型的な原方衆の屋敷が今も残る、米沢市南部の地区芳泉町、寛文4年(1664)に15万石に減らされるものの明治維新まで上杉家は続きます、米沢市内は火災や都市開発で古い建物は残らなかったが、郊外であるが故、当時のままの通りと屋敷が残っています、残念ながら近代の民家にかわったり、空き家となったところも目立ってきてましたが、ウコギの生垣など歴史遺産として保存会ががんばっておられます。 庭の松も枯れてしまっているがなんかオブジェに見える。


9月11日赤湯の暴れ獅子を観てから長井市成田八幡神社の獅子舞を観にいく、9月もあちこちで獅子舞いがあります、幼馴染の親がこの成田出身で獅子も趣味で彫っていたようです、小さいときから祭りのとき帰省で獅子を観てそだち、その影響で獅子頭展を開催するなどかなりのオタクぶりの幼馴染、長井市は黒獅子祭りがあるなど、獅子好きが多いようです。


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