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豪族屋敷(中郡時田)

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豪族とは、飛鳥時代より前から日本各地にいた有力者のこと、この豪族と呼ばれた人たちは、貴族として政治に参加する人もいれば、そのまま地方に残って、中央から派遣された国司の下で地元を管理したりしたようで、豪族は、大昔からの由緒正しい土地の人のことですが、農民出身の有力者や武士も同じような感じで地方を管理するようになる地方の親分、そんな豪族たちの家は『豪族屋敷』というわけで、実家のある小松から米沢に行く途中の中郡地区にいい感じの屋敷と堀があるところがあります、上杉が会津から米沢に移った時、新発田から来た武士一族とあります、横の田んぼには一族の墓ですか、直江兼続が考案した、米沢藩独特の墓石万年搭が並んでます、万年搭は中がくりぬかれ、側面に穴があけられた形の石の上に、屋根をのせた形で、有事の際に屋根を取り外しバリケードや、洪水の際に土をつめ土嚢となるように考えられたものでした。この地域に万年塔は、まだあちこちに見られますが、だいぶ風化して欠けているようです・・

2016.11.06:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

鮎貝八幡宮獅子舞

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8日が宵宮祭であったが雨で中止、9日に行くことにしたが、高畠町では小室等に太田裕美さん出演のイベント、長井市でも音楽,食、手作り作品のイベントがあり、どこに行こうか悩んでしまう、結局、幼馴染の歴史オタクと昼は鮎貝八幡神社獅子舞へ、午後は高畠にいって小室さん太田さんの懐かしい曲を聴いて一旦自宅に戻り、夕飯後また鮎貝の獅子を観にいく、この舞は、「七五三の舞」と呼ばれ、足の運び方が独特、7歩進んで5歩さがり、3歩で元の姿勢に戻る足の動きから、その名前が付いているが、その元祖といわれている、総代の方と話も出来てなかなかよかったです、鮎貝八幡宮の獅子頭には雄獅子と雌獅子があり、舞にでるのは真っ白なたて髪に、赤い耳の雄獅子です、神社境内には3対の獅子頭があり古いのは江戸時代のもの。重さ約二貫匁の7.5kgもあり七五三の舞を3回繰り返すには、十分な練習を積まないと舞えないそうです。今の獅子頭素材はヒノキと聞きました、そういえばここには下馬がなく聞いたが、昔からないんだそうです、理由は不明、それとどうも古太が先に行ったような?しかも太鼓とかかれた提灯があるなど、他とまた違うところを発見、これがチョットウレシイ。。鮎貝神社は城跡でもあり堀や遺構が多く残っておりまたじっくり観にいこう・・

2016.10.09:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

米沢藩葬儀場跡

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先々週の米沢ブラ散歩・笹野地区めぐりで通りかかった大壇原地内は、米沢藩主の葬儀が行われた場所で、第3代藩主・綱勝から第7代・宗房までの5名の藩主と1夫人の葬儀が行われました。現在はそばを植えた畑となっていいました、看板には万治元年(1658年)に第三代藩主・上杉綱勝夫人(媛姫)の死去に際し江戸から遺骸を林泉寺に移送して塵焼(火葬)した後に、大壇原で葬儀を営んだのが最初で、寛文4年(1664年)5月7日に三代・綱勝が江戸麻布邸で死去すると、廟所敷地内で塵焼を行い、笹野大壇原で葬儀が執行され、それが藩主葬送の慣例となりました。しかし、9代・上杉治憲(鷹山)の時代に葬法が土葬に転換すると葬儀は廟所で行うようになり、大壇葬場での葬儀はなくなります。江戸時代の藩主葬送の歴史を示す重要な存在とあるが、現存する遺構などは特になにも無いようです、

2016.10.09:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

直江石提(米沢市)

  • 直江石提(米沢市)
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秋晴れの日、松川(最上川)の上流・直江石堤を訪ねた。会津120万石から米沢30万石にに領地を削られ、上杉氏の本城となった米沢、大勢の家臣団が移り住みました、城下に収容しきれなかった下級武士は郊外の南原・東原に配置し、荒地の開拓・用水・治水、城下の用水となる御入水堰、猿尾堰、帯刀堰など開削・洪水から米沢城下を守るため松川に谷地河原堤防と蛇土手を築いたということです、藩士の奉仕にによる修復、特に、文化9年(1812)の工事は、延べ9,727人の藩士を動員した大工事と記録されてます。昭和61年に市の史跡に指定され、きれいに整備された公園になってます、何か機械で修復なのか工事してました、それにしても昔は機械も無くほとんど人力の大工事にただただ驚きます、それに藩士による奉仕とは、そこそこ不満もあったでしょうにね・・米沢を築いた先人の苦労は並大抵のものではないと痛感、治水の大切さを教えてくれた史跡でもあります・先人の皆様こうして「直江堤公園」として後世に名を残したことは救いでしょうか?。もう少し工事責任者とか下級藩士の奉仕者たちも名も書いてあげればいいとふと思ったじじの感想でした。 

2016.10.05:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

笹野観音(米沢)

  • 笹野観音(米沢)
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現在の本堂は天保14年(1843)江戸時代の末期に再建、建築図面が当時の大工棟梁の子孫宅に大切に保存されているということで、完全な図面が現存しているのは珍しいようです、茅葺の屋根がいまも維持されていて重厚な趣を与えている、置賜特有の月夜燈もある、門前のところには笹野の里に伝わる笹野彫のお店があり、観音様参拝の縁起物として農民の手によって伝承されてます。本殿内に獅子頭がありました、例祭のときにまた訪れようと思います、

2016.09.30:li-no:コメント(0):[歴史探訪]