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天神森古墳

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小松幼稚園のとき、天神森に遠足した記憶がある、そのころは羽前小松駅の東側は田んぼだけであった、現在は町の施設が集まるところであるが、1801年小松村の絵図が残っており、そのころは更にまわりはなにもなくなくぽつんと田んぼの中に天神がある、町の調査資料に米坂線工事のときの天神写真があった、中学3年のとき小松駅でSLラストというので撮ったとき天神が写っている写真があるがいまより森がすっきりしていますね、資料によると『東北最大級の前方後方墳。 天ッ神少彦名命(亀森天神)・菅原道真(天満天神)の二座を祀る。 天満宮別当であった大円寺所蔵の縁起によれば、平安時代天徳4年、分霊を勧請して創始され、延徳元年に伊達尚宗、享禄2年に小松城主桑折播磨守、万治2年に上杉綱勝による社殿寄進が記録され、中世には長井氏、伊達氏、上杉氏の代々領主の崇敬を集めた。 かつての小松は、商業や文芸が盛んな宿場町として大変栄えており、天満宮は、中世には連歌の神様として盛んに信仰されていた。しかし、江戸時代以降、連歌の衰退と共に社殿も縮小し、明治の火災以降、再建されず石祠のみとなって現在に至る。』 現在地元有志により天満宮神輿が復活し精力的に活動している、子供が小さかった頃、東神奈川浦島に住んでいて、この辺、祭りといえば御輿、仕事でいけないんだなんていうと、”バカヤロー、仕事なんかしてんじゃねー、年一回だぞー”と威勢のいい御輿馬鹿がたくさんいました。

2016.12.21:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

川西町立小松小学校(その2)

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アルバム整理で見つけた小松町の航空写真、父に聞いたがいつ頃なのか、どうして持ってるのかも覚えていないそーだ、この写真、小学校の木造校舎があった場所がグランドになっているから昭和43年以降で周りの状況から昭和50年までの頃と思われる、今年フレンドリーで購入した1801年の小松村絵図と比較すると面白い、1801年の道はほぼ残っており、上小松の大円寺に郷校を開いたとある小学校前身も天神様も絵図に描いてある。昭和40年頃の小学校の写真がある、現在もこの門と松の木だけは残っている、よく残してくれましたね、同じ場所での新旧写真撮り、下校中の子供たちにあうと、みな『こんにちわ!』と挨拶する、これっていいですよね。この子達にも変わらぬ思い出の場所残してほしいと思います・・

2016.12.20:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

川西町立小松小学校

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我が母校となる小松小学校は明治5年の学制発布の前年9月18日、上小松の大円寺に郷校を開いたとあり明治4年創立となる、先輩に直木賞作家の井上ひさし氏がいます、「♪南に吾妻、西飯豊、東はるかの蔵王山、みわたす峰もおごそかにィーー♪」校歌は意外と覚えているもんです、アルバム整理で昭和16年父卒業アルバムを見つけました、グランドから天神森古墳の木が見えますね、このグランド、今は校舎になっていて昔の校舎は現在のグランドとなっています、わたしが小学校6年(昭和43年1968年)のとき木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎にと移りました、古い校舎も一部残っていて新旧とちゃんぽんで使用してました、昔の校舎、グランドでの運動会、体育館は2箇所あって小ぶりの北体育館でよくやっていた「つなぎおに」記憶によく残っており懐かしいです。大円寺は今も小学校の北西1kmほど先にあります。

2016.12.18:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

川西町 上小松市神

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『上小松は上杉藩政時代より山形県南部の経済の中心であった。新潟方面や最上川を利用した江戸大阪との取引などが、小松においても盛んに行われていた。とりわけ、小松の馬市は全国的に有名であった。この市神は、商業の発展を祈る地域の人々によって、現在の山形中央信用組合の北側に建立された。碑には天明三年(1783年)正月吉日の名が刻まれ、約220年前のものである。現在の場所には、昭和42年に金子十三郎氏が中心となり、移設されたものである。』  -掲示看板より-(昭和44年川西町文化財指定)  この市神様、現在は十印菓子店の南側にあり、現在も11月5日には地域商店の方たちにより神事が行われ、大切に守っています、7月末の虫送り、8月末の神送り神事のときには市神大明神の提灯が飾られ、この通りの前は今も昔と変わらぬ提灯行列が通ります。

 

2016.11.14:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

豪族屋敷(中郡時田)

  • 豪族屋敷(中郡時田)
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豪族とは、飛鳥時代より前から日本各地にいた有力者のこと、この豪族と呼ばれた人たちは、貴族として政治に参加する人もいれば、そのまま地方に残って、中央から派遣された国司の下で地元を管理したりしたようで、豪族は、大昔からの由緒正しい土地の人のことですが、農民出身の有力者や武士も同じような感じで地方を管理するようになる地方の親分、そんな豪族たちの家は『豪族屋敷』というわけで、実家のある小松から米沢に行く途中の中郡地区にいい感じの屋敷と堀があるところがあります、上杉が会津から米沢に移った時、新発田から来た武士一族とあります、横の田んぼには一族の墓ですか、直江兼続が考案した、米沢藩独特の墓石万年搭が並んでます、万年搭は中がくりぬかれ、側面に穴があけられた形の石の上に、屋根をのせた形で、有事の際に屋根を取り外しバリケードや、洪水の際に土をつめ土嚢となるように考えられたものでした。この地域に万年塔は、まだあちこちに見られますが、だいぶ風化して欠けているようです・・

2016.11.06:li-no:コメント(0):[歴史探訪]