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仕事の記録1978~ETS-Ⅲイオンエンジン装置の開発(その2)

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東京都田無市向台に電子技術総合研究所(略称:電総研、英文略称:ETL(ElectroTechnical Laboratory))がありました、最初に宇宙に関わった仕事はETS-Ⅲ搭載のイオンエンジン装置の開発で電気制御関係はETLで研究しておりました、1978年からかかわり当時筑波研究学園都市へ移転する前になります、現在ETL跡地は高校と公園になってるようです、エンジン本体の研究は調布市深大寺にある航空宇宙技術研究所:略称NALがありここのイオンエンジン研究棟でエンジンの研究開発を行っていました、ETS-Ⅲの開発ではエンジンはNAL指導で三菱電機鎌倉製作所が担当してETL指導で電源とその制御器を東芝小向が担当しておりイオンエンジンのサブシステム試験は東芝とりまとめとなっていました、新設の宇宙事業部で取りまとめするサブのリーダーが通称”ねこさん”でその下で、総合サブシステム試験の設備から試験装置を担当することになった私はETLとNALに随分と通いました、なにもわかっていなかった新人の私はETL,NALの先生に随分と教えてもらったということになります、配属職場のETS-Ⅲイオンエンジンプロジェクトの取りまとめがねこさんと同じような格好のKさん制御器担当のKさん電源装置担当のOさんもほんとになにもわからない私をよく辛抱強く使ってくれたと思います、ETS-Ⅲの経験はやがてETS-Ⅵの電源装置主担当になっていくのですが・・ETS-Ⅲの成果は昭和59年にETL研究報告となり博士論文となりましたね、その電源装置担当のOさんに渡った論文はどういうわけか現在私がもっています、そのETS-Ⅲ電源装置担当Oさんはその後の電源研究で博士論文を取得してます・・

2018.01.21:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1978~ETS-Ⅲイオンエンジン装置の開発(その1)

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技術試験衛星Ⅲ型(ETS-Ⅲ)は大電力を必要とする人工衛星に共通な三軸制御を確立するために当時宇宙開発事業団(NASDA)より東芝が主契約で行ったプロジェクトであり、東芝小向に宇宙棟を建てて宇宙専門の事業部で本格的に宇宙事業に関わった衛星となります、東芝小向や研究所ですでに関わっていた人も小向の宇宙事業部配属となり東芝日野からは小向に宇宙事業部をメインに1978年(昭和53年下期)に50名移動したなかの私はその一人でした、衛星は当時、詳細設計に移行する時期で、配属された電源技術部は当時宇宙研のSEPACと宇宙開発事業団(NASDA)のETS-Ⅲの開発機器に他の産業機器電源もあり忙しかったのですが、新米の私はすぐ使い物になるわけもなく、搭載機器はすでに詳細設計まで進んでいて、私はイオンエンジン装置のサブシステム試験やイオンエンジン電源装置とその制御装置の試験を行うための試験治具や試験装置側の設計担当として宇宙関係の仕事に関わり始めました、このETS-Ⅲは1982年(昭和57年)の打上げ後、軌道上で「きく4号」と命名、先に打ち上げられたETS-Ⅳが「きく3号」と命名されたためⅢだけど4号となっています、3軸姿勢制御や太陽電池パドル展開機能の確認、能動式熱制御に関する実験、イオンエンジン装置の動作テストなどを行い1985年3月、姿勢制御燃料が枯渇状態となったため運用を終了しています(JAXAホームページより、写真は衛星試験中のETS-Ⅲ)このなかのイオンエンジン装置が担当装置でこのあとETS-Ⅵ、Ⅶ、Ⅷとかなりの期間をイオンエンジン装置と付き合うことになっていきました・・つづく

2018.01.20:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1978~SEPACプロジェクト

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極地方のオーロラ現象をスペースシャトルを利用して人工的に確認しようというアイデアの共同プロジェクト。(SEPAC:Space Experiment with Particle Accelerators)と名づけられていた、シーパック、職場ではセパックと言っていた、主に電子ビームやプラズマビームによる人工オーロラ生成実験装置で、NASAのスペースラブ-1号の搭載機器として1976年(昭和51年)に採択、開発は日本の東大宇宙科学研究所が実験・観測機器を担当し、米国側がスペースラブ搭載用管制装置とソフトウエアを担当していて、配属の職場は宇宙研より電子銃プラズマ電磁加速器の開発を担当、製造も同じ部内で行っていました、何年までだったかもう忘れて定かではないのですが自分はこのプロジェクトではなく技術試験衛星Ⅲ型のイオンエンジン装置開発側に回りました、まだまだひよっこの私は搭載機器ではなく地上試験装置から衛星機器開発に関わるようになりました・・セパックは相当苦労してましたね・・それが第一回目のミッションではMPDによってビーム放射による放電現象の励起、臨界速度効果の検証実験、プラズマ放出による帯電中和などに関して科学的成果を挙げたのですが。EBAについては電源に異物が混入したことから機能不全となり、オーロラ実験は不発1992年(平成4年)に行われた第二回目のミッション(NASA実施)で人工オーロラの生成に成功している。地上に帰還したEBAを調査に行ったのは私の仲人してくれたK課長で異物発見にΣ(・□・;)ニュースにも流されて・・悲しい結果に、2回目のチャレンジで成功するも大きく取り上げられなかったという記憶です、その機器はいまでも宇宙研相模原キャンパスの見学展示コーナーに置いてあります、宇宙研は相模原住まいの時は自宅から自転車で10分以内と近く宇宙研での仕事のときはうれしかったですね、長男の結婚披露宴(2010年)で両親に兄弟来ていたので宇宙研見学実現しましたね・・あれからもう8年相模原から山形の里暮らし始めて今年で3年目になります、相模原キャンパスも懐かしいです・

2018.01.18:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1978から2001東芝小向時代(川崎)

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東芝日野から東芝小向に移動になったのは1978年10月で当時50名の移動でした、50名のうち独身メンバーが大半だったと思います、東芝日野寮は会社と同じ敷地の中で通勤時間は数分であったのが川崎地区の寮に移動するまで数週間は川崎まで通ったのを覚えています・・中央線豊田駅から八王子経由横浜線でまだ暗いうちから通いました・・川崎のイメージは小学校のころ公害、労働者の街としてしのイメージしかなく嫌な場所に行くことになったなと思いました、当時川崎駅は今のように洗練された駅ではなく西口は東芝堀川町工場があり小さな飲み屋街がある昭和昭和した雰囲気のところ東口は川崎の歓楽街で東口は公園みたいなところがある駅でしたが公園のようなところに終電乗り遅れたのか、浮浪者なのかおっさんがベンチで寝ていたりあまりいい印象ではなかったような・・東口は京浜地区の工場にいくバス停にたくさん人がいました、写真は昭和時代の川崎駅と今の川崎駅です、現在の川崎駅西口は全く面影がなく東芝堀川町工場はなくなり洗練された駅になってます、川崎のイメージが変わったのは地下街アゼリアができてからですね、男女七人夏物語、秋物語とさんまさんとしのぶさんが出ていたドラマは川崎アゼリアを撮影につかって川崎も横浜にならぶきれいな都市にと変わったと感じたものでした、東芝小向は川崎駅から社バスで5分くらいでしたかね航空・宇宙・防衛・放送機に昔はテレビにビデオもあったところです、小向地区は東芝科学館に東芝多摩川工場、東芝総合研究所もある大きなところ、所属した課は航空・宇宙に防衛、放送機、通信機事業部、青梅コンピュータ事業部にも電源を供給する多岐にわたる電源の開発課でした・・最初の仕事は青梅のミニコン電源(Γ電源)というやつで教えてもらった主任さんは後に課長になり初仲人をやってもらった東大出のKさんに抵抗器メーカの北陸電気幹部の息子さんであるNさん後に東芝を退職して北陸電気長野の工場長になっておりました・・次につづく・・

2018.01.16:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1975-1978年CBトランシーバ(その4)

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CB無線機コブラ135XLRベースステーション・・・車載用でなくベースに使用する機種で販売から40年経ってるのにネットで検索すると結構出てきます元気に使用してるものもあるようで懐かしいです、YouTubeに投稿されているものも2017年と最近のものもあります、中身ばらして説明してるものとかもありました・・ベース機器にはタイマーがついていて時間設定でON/OFFできました、なつかしいパタパタ時計というやつです・・パタパタ時計は、数字が半分ずつ書かれた多数の薄いプラスチック板をはめた円筒の回転により、上下の板で構成された文字板で現在時刻を直読する時計のことです・飛行場の案内板や歌のベスト10などによくでてましたね・昭和らしいです、当時はディスクリート部品で完全アナログ回路、回路図は製品に添付されていました、東芝日野が開発から製造までしていて、この中で使用されてる電源部分はあとからわかったのですが移動した職場の東芝小向の電源開発部門から供給されていたものです。東芝日野のCB無線は入社当時(1975年)単なる小グループ数人のこじんまりしたとこでしたがCBブームに乗りあれよあれよと専門のCB無線開発課から製造課、生産技術部門を有する専門の部に昇格していたのですがあっという間に解散するということになりもとの小グループに戻るということでした・・この年東芝ふくめ日本が衛星3社(NEC、三菱、東芝)を育て専門に宇宙開発をする時期と重なり、東芝日野から50名ほど1977年10月に東芝小向に移動となりました東芝は各工場から人を集め1978年に小向工場内に宇宙事業部を設立して宇宙開発を専門に開始するのでした・・小向は東芝総合研究所、トランジスタ製造の多摩川工場と航空宇宙防衛、放送機にテレビにビデオと多岐にわたる小向工場の3事業があつまる大きなところでした・・当時日野の生産技術の課長が東芝小向の電源開発部の課長と同期ということもあり私は東芝小向の電源技術部に移動となりました、人工衛星の機器開発はこれからの事業だから簡単にはつぶれないからそっちで技術者として生きなさいとのことでしたが、製造から生産技術に移り開発と製造の架け橋みたいなとこで嫌というほど開発のしんどさというより基本の英数国をきちんとしてないと務まらないとこと感じていた私には務まらないと・・せめて生産技術にと願い出たのですがいいからやってみなさいと言われ不安の中東芝小向に移動したのでした・・・続く・・

2018.01.13:li-no:コメント(0):[過去の仕事]