HOME > 創業者の記憶 ~老兵の半生~

老兵の半生(友達)

ある休日、弟弟子の千ちゃんが、見知らぬ男の子を連れて
きました。「善治ですよろしく」「良夫ですよろしく」
二人とも私と年齢は同じか一つ上くらいでした。
善ちゃんは、角刈りの頭で背は、170くらいですが
逆三角形のがっしりした体格でした。良ちゃんは同じ位の
背丈ですが、なで肩の優男でした。
善ちゃんは、彫金見習い、良ちゃんは大工見習い
いずれも地方より、上京していました。
「今日は雷門に遊びに行こう」善ちゃんがそういうと
みんな「いこう」「いこう」初めての出会いなのに
みんなすっかり意気投合です。
当時都電がどこまで乗っても片道13円で、往復買うと25円
でした。タクシーが小型で一区間が、60円
善ちゃんが「タクシーで行こう、60円でいけるところで
降りそこから歩いてすぐだから。」
「都電より2円高いが、一人15円だから、そんなに違わない」
そう言うと彼は、さっと右手を上げ、黄色いルノータクシー
をとめました。その時から彼はもう我々のリーダーでした。
その後仕事を終われば、銭湯に行くのも何をするにも
4人の仲間は、一緒でした。
色々な交友関係を、重ねていくうちに、様々な情報の中で
自分の将来を見たような気がして、とても憂鬱になってきた
のも、事実でした。
・・つづく・・

老兵の半生(浅草田中町)

私は昭和35年の4月、東京台東区浅草田中町の
靴職人「菅正夫親方」の家に内弟子として住込んで
いました。付近一帯は東京空襲を免れ、戦前の古い建物
が密集している、典型的な東京の下町でした。
周りには、遊郭で有名な吉原、江戸時代の処刑場小柄原、
錦糸町、山谷、隅田川等々で囲まれ、私にとっては
見るもの、聞くものすべて興味あふれるものばかりでした。
親方は、どちらかと言うと遊び人で、仕事は奥さんが
殆ど仕切っていました。親方は特攻上がりで、出陣の
二日前に終戦になって、命拾いしたのだと、酒に酔うと
よく、私たちに特別攻撃隊の話をしてくれました。
親方は当時年齢が、三十歳位でいい男、気風がよく
激しい性格でありましたが、私たちには優しかったです。
奥さんもすらりとして、綺麗で祭が大好き、生粋の
江戸っ子でした。実家が近くにあり妹達が良く遊びに
きてました。
職人は親方と奥さんと親方の妹、弟子は私と、弟弟子の
千ちゃん。家族としては親方の二人の男の子を、含めると
七人での、共同生活でした。
よく当時人気のあった、力道山のプロレス試合をみるため
一家そろって、白黒テレビのある近くの、そばやさんに
連れてってもらったものです。
仕事はあまり面白いとは、思わなかったのですが
親方や奥さんその他の人たちとの、ふれあいは
一生忘れられない思い出と成っています。
・・つづく・・

老兵の半生(初恋)

「お兄ちゃん、西瓜食べない」休日なのに、小遣いも無く
暑くて、ドァーをあけっぴろぎで、三畳の部屋で
ごろごろしていた私に、セーラー姿の隣の部屋の高校生が
三角に切った,数切れの西瓜をお盆に乗せ、入り口前で
声をかけてきました。
朝夕顔をあわせる、事があっても話はしたことも
無かったのです
その子は、大阪に実家があって、
東京の大学を目指しているので
高校は東京のある有名高校を受験し、商社に勤めている
お兄ちゃんの部屋に、同居して高校に通学していました。
少し小太りの眼のくりくりした、丸顔のセーラー服が
よく似合う可愛いこでした。年は一つ上なのに、私には
もっと年上のお姉さん的感じでした。
時々話しをするようになりましたが、そのご2ヶ月くらいで
引越しして行きました。
不思議と今でも名前だけは、覚えています。
私もまもなく、この職場をやめ在京の従兄弟の紹介で
浅草にある、靴職人の親方の所に、住み込みで弟子入れ
したのも、多分その子が、引越ししていったのが原因
であったろうと思います。
陽炎にも似た、私の17歳の初恋でした。
・・つづく・・

老兵の半生(谷中初音町)

「行ってきます」「気おつけて」
49年前の昭和34年の三月、東京台東区谷中初音町
のあるアパートの一室で、主人と奥さん、奥さんの
妹で、仕事している袋物(女物の抱えや、バック)を作る
職人に、弟子入りした私がいました。
再度上京して、一年がたっておりました。
上野七件町を通り、上野駅の前を通り、昭和通りを
抜けて蔵前に入り、浅草橋の問屋まで、
出来上がった品物を、届けに行くのが日課に、
成ってました。
今考えて見ますと、東京ものどかなものだったと思います
自転車で田舎出の、17歳の少年でさえ、東京のど真ん中を
通行できたのですから。
私の部屋は、二階の三畳間でした。
仕事を七時に終わると、近くの銭湯に親方と行き
八時に夕食を食べ、自分の部屋に。
今のようにテレビもなく、本を読んだり両親に現況
報告の手紙を書いたりで、時間を過ごす毎日でした。
休日は、第一日曜日と第三日曜日の月二回でした。
金のあるときは、上野に出て映画館で洋画をみて、
後は、上野公園内を散策したり、上野松坂屋デパート
の売り場をのぞき見る。
金の無いときは、地域にお祭りや、市があれば出かけてみる
そんな休日の過ごし方でした。
友達もいない、職場の同僚もいない生活、私にとって
真に寂しい生活の日々でした。
・・つづく・・

老兵の半生(人の情け)

「如何したの僕たち」車の窓をおろして、年のころ
50前後の運転手のおじさんが、声をかけてくれました。
「上野駅に行きたいのですが、方向がわからない」
「歩いて行きたいのですが、どっちにいけば
いいのでしょうか」
すると「歩いてなんて、無理だよ、田舎に帰るのか」
と聞かれて、三人とももうべそをかいていました。
三人とも、山形へ帰る片道の汽車賃の他は、合わせても
いくらもお金は、もっていなかったのです。
私は汽車賃をのこした、小銭を集めて「これで上の駅まで」
乗せてっていただけないでしょうかと、頼んでみました。
一瞬黙ったその運転手は、「乗りな」と言うなり黄色い
ルノーのドアーを、開けて荷物を積んでくれました。
白々とした朝もやの、町を走りながら彼は、
「どこから来たの」「山形からです」「いつ来たの」
「一週間前です」「職場が合わなかったのだね」
「おじさんは、岩手県が故郷だよ」と言いながら
「上野駅に着いたら、一人は荷物の番をして、二人で
時刻表と行き先をよく確認して、切符を買いなさい」
色々と教えて、くれました。
当然タクシー代には、程遠い料金だったと思います。
彼は、其のことには一言も触れずに、葛飾堀切町から
上野駅まで、乗せてきてくれました。
最後に「東京は良い人だけではないよ、気をつけな」
其の言葉をのこして、走り去って行きました。
私も、其の時のおじさんの様な、大人になりたかったのに
まだ、ほど遠い存在であります。
その後一ヶ月ほど、故郷で過ごし、硬い決意のもと
再度上京したのでした。逃げ帰った二人の仲間とは
いまだ再会を果たしておりませんし、どこにいるのかも
解っておりません。
つづく