HOME > 創業者の記憶 ~老兵の半生~

老兵の半生(坂本九2)

  • 老兵の半生(坂本九2)
1982年3月6日、沢山の難問を乗り切って、ついに計画は
実行されました。
沢山の人々の、無償の協力、それにもまして、坂本九さんの
出演料無しでの、二日間のお付き合い。
卒業生、担当の先生、OB達の感激は、計り知れないものでした。
このことが、どんなに定時制の卒業生達に、力を与えたことか。
九ちゃんと私の年代が同じ、奥さん(柏木由紀子)の年代も同じ
私の長男、次男と、彼の長女、次女も年代がそれぞれ同じ
何かしら組み込まれていた、人生のシステムであったのかな、
ふと思ったものでした。
彼は定期的に、沢山のボランテイァ活動をやっており
前の日、北海道で障害者のボランテイァ活動を行って、
その帰りに、山形空港に、寄り道して降りてくれたのでした。
前の晩、上山のホテルで打ち合わせをした際に、様々な
苦労話など、スターらしからぬ一人の普通の人間同士に、
なって雑談を交わしたのでした。
同い年なのに、さすが人間が出来ている。
「今回の計画よく頑張って私を引っ張り出したね」
といわれた時は、実行役員一同思わずうれし泣きでした。
はぎ苑で行われた、九ちゃんの歌声「上をむいて歩こう」
「見上げてごらん夜の星を」最後は大勢で歌った思いでは
多くのOB達にとって
一生心に残るひと時であったろうと、思います。
その日の出来事は、"アサヒグラフ" 1982年3月26日増大号
の78ぺーじ~81ぺーじの、4ぺーじに渡って記載されています。

老兵の半生(坂本九1)

1982年3月5日、早春の澄み切った空気の中で、開校以来20年間
319人の卒業生を送り出して、長井工業高等学校定時制過程は、
閉校していった。最後の8名の生徒を送り出して
私度の会社にも、2名の卒業する生徒が勤務していました。
当時定時制 OB の会長をやっていた私にはこのまま平凡に
閉校式を終わらせたくない、何とか最後の卒業生に、花を持たせ
華やかに送り出して、やりたい。その思いから一年
前より、数人のOB仲間と相談してました。
あるOBから、「坂本九を呼ぼう」大変な事を言い出しました。
理由は我々が、定時制の学生の頃彼のヒット曲の中に
「みあげてごらん夜の星を」と言う歌がありあれは、定時制の
応援歌である。我々はその歌によってどんなに、励まされたか
わからない、卒業生にはこの歌をじかに聞かせてやりたい。
それが理由である
仲間は其れがいい、それがいいと決定の運びとなったり
実行委員長は、会長に決定と下駄をあずけられ
これは困ったぞ、まずその日の日程が合うかどうか、資金的には
どのくらいかかるのか、交渉するのにはどんな道があるのか
雲をつかむような話でした。
宿泊のはてから、送り迎えの車両から、演奏は如何するのか
様々なことが、未体験の連続でした。
何しろ今から26年も前のことですから、今ならイベント会社
にたのべば、資金と日程さえ合えばそんなに、
困難ではないでしょうが、素人集団では大変無謀な計画でした
まして「坂本九」と言えば押しも押されぬ当時のトップスター
それに県立高校であるが故に、県の許可を取らないとそんな
前代未聞の閉校式など、許可してくれるか分からない。
それでもまだ、私らも若かったのですね会長の私で41歳でしたから
みんな30代で、気力がみなぎっていました。
つづく

老兵の半生(校長)

昭和37年、私21歳の高校一年生詰めいれの学生服
七つ年下の級友たちとの入学式。
式辞を話す初代校長の顔を見て、「やばい」と思いました。
実は、その人とは何度か酒を酌み交わしたことのある人でした。
姓は知っておりましたが、名までは知らなかったのでまさか
校長とは、思いませんでした。
彼は実家の山形市を、離れて単身赴任で地元のある旧家に下宿
しており、酒豪で豪快な気質で偉ぶらない、泥臭い振る舞いの
中に、一つ筋の通ったいわゆる、現代の侍的な雰囲気の人でした。
そもそもの出会いは、彼の行きつけの居酒屋で会ったのが
始まりでした。帰りはが同じ方向だったので時たま
「サンタルチァ」を歌いながら高野町通りを、下宿まで送って
行くのが、彼と居酒屋であった時の慣例になっていたのでした。
まさか入学式で合うとは
学校では、私は夜間生であったため個別に会うことなど
なく、勿論話す機会やすれ違うこともありませんでした。
何しろ校長先生ですから、夜の授業等にも顔を出すことも
ありませんでした。
卒業後彼の所に挨拶に行ったとき「なんだ吉田君
内の生徒だったのか」と驚きもせず「頑張ったね」
といってくれました。実は在学中も三度ほど一緒に飲んでました。
多分生徒であることは、知っていたのかも知れません。
4年間の高校生活を、挫折することなく終了することが出来たのも
この校長と知り合えた事が、最大の原因だったと思います。
彼の葬儀も山形の護国神社で神前式で行われ浪々とした「しげん」
の響きの中で送り出されて行きました。最後まで侍にふさわしい
待遇でした。その後一度も神前の葬儀には参列した
記憶がありません。

今はなかなか彼のような教育者は、見当たりません。

老兵の半生(ビル沢湖)

昭和35年、私19歳、今から48年前
地元に水道が引かれるとの事で、街中の主要道路の端を、大勢の
人たちが、(つるはし)と(スコップ)を使って掘っていました。
自宅前も、毎日毎日その人たちで、少しづつ距離を
伸ばしていました。
その中に私と同世代の背の高い痩せ型の、ちょっと男前の
彼がいました。水を飲ましてくださいと言われたのが、きっかけで
話をするようになり色々話しているうちに、彼は南高(現在の長井
高校)を卒業し役所の水道課に、就職して毎日水道埋設のため
道路堀をしているとの事でした。私は上京して挫折帰郷して
目的も探せず、いわゆる荒れた生活の毎日を過ごしていた
時期でした。
ある日、「今度の日曜日サイクリングに行こう」
「何処まで」「高畠のビル沢湖まで」
「無理、俺は体力も無いし右足に欠陥を持っているから」
「やってみなければ、解らないだろうゆっくり、時間をかければ
行けるよ。俺がサポートするから」強引に約束させられ
私にとっては、清水の舞台から飛び降りるような気持ちでした。
ビル沢湖の"手ごきボート"に寝そべって見た
そらの青さが、今でも鮮やかに思い出されます。
なぜそのとき彼は、強引に私を連れてってくれたのかは
解りませんが、努力もしないで、すぐあきらめる事は、
人間として最低の生き方だと、教えてくれたのかも知れません。
それほどその時の私は、無気力だったのかもしれません。
挑戦する事で、自分の可能性を引き出すことが出来る。
その後の私は何かが、開けてきたような思いで一杯でした。
この達成感がその後、おくればしながら高校入学することに
なった要因のひとつになったのでした。

彼には何十年もあっていないが、元気だろうか。

老兵の半生(あんちゃ先生)

昭和32年、私中学三年生、就職先を決めるため悩んでいた
時代です。希望は地元に就職したい、しかしながら地元では
なかなか見つかりませんでした。
その上私には、右足に欠陥がありあったとしても、断られる
のが落ちでした。当時の担任の先生は23歳の若い体育の先生で
私達との年齢の差が七歳しか、違わない小柄な先生でした。
だれゆうとなく自然に「あんちゃ先生」と呼ばれていました。
今でもそうゆうと名前を言わなくても、当時の卒業生は
みんなわかります。
山形の時計屋に、就職面接に行くことになりましたが
父兄同伴が条件でした。
当時貧乏暇無しの父母は、決められた日は仕事を抜けることが
出来ず、私は困り果てていたのですが
「いさお、俺がついてってやる」と先生と一緒に山形に
面接に行ったのでした。面接の人から「お兄さんですか」と
言われたときは、一瞬そうだったらいいなぁーと思ったものです。
現在自社でも、高校卒の子供達を長年毎年採用しておりますが、
担任の先生が、後にも先にも顔を見せたことは、ありませんし
なおかつその子達の、父兄の挨拶も受けたこともありません。
結局私は、卒業後上京したわけですが。
私にとって、この先生はいつまでも「あんちゃん」今でも何年かに
一度交流を深めています。

最近あっていないのですが、そのうち同級会でもやって
先生を呼んでみよう。