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老兵の半生(逃走)

「決行は、明日朝3時だよ、寝るときは出かける服装の
まま寝ること。」私は他の二人に、荷物をまとめて
置くように話しました。
逃走を決意して、一週間後の夜でした。
4人の仲間と話し合い、持ってきた小遣いが無くならない
内に、決行しないと逃げられなくなる。
堀切町から、上野にいたる道も分からなければ
どのくらいの距離が、あるかも分かりませんそれでも
線路伝いに、歩いて行けば上野駅に着くことが、できるで
有ろうと思っていたのでした。
4人の内一人は、ギリギリの小遣いで来たので、初めての
給料をもらってから逃げると言い、決行は三人でする事に
きめました。
逃走の決行を、決めたのが仲間の一人が、一人の先輩に
殴られたのが、決断のきっかけでした。
決行の日川の字に寝ている先輩たちに気づかれない様に
寝具をまとめ紐で縛っていると、隣で寝ている先輩が
目を瞑ったまま、「無事帰れよ」と小声で言ってくれました
会社の敷地を、来たときと同じ様に、寝具を背負った三人
は足音をしのばせ鉄製の門をよじ登ってそこを離れたのです
昭和33年の4月の初めでした。
線路伝いに、一時間近く歩いたのですが、まったく方向が
分かりません。私は足に障害を持っていたので、荷物を
背負っての歩行は、かなり辛かったのです。
仲間の一人が、「一休みしょう。俺が持ってやる」
と私の背中から荷物を自分の荷物の上に乗せてくれました。
体格は大柄で、農家に生まれたので小さい時から、農作業
を手伝っており私なんかより、ずっと大人だった様です。
道路の端で、一休みと言うより途方にくれていたと、
言うのが、正解だったのでしょう。
下を向いて、三人とも泣きたい気持ちで、だまって
通行のまばらな、道路の街灯を見つめていました。
其のときです、一台のタクシーが私たちの前に
止まったのです。
・・つづく・・

老兵の半生(初めての職場)

就職列車で、上野駅に着いた私たちは、葛飾堀切町の
Hシューズ会社の総務担当の人に、引率されその場で
初めて知り合った、三人の仲間と共にチッキで運んだ
寝具を背に電車を乗り継ぎその会社に着いたのでした。
付く早々、荷物を食堂と言われる製品の入ったダンボール
が沢山置かれている、20畳ほどの板敷きの部屋の片隅に、
置くように言われ。そのままの服装で、各作業を行っている
所に連れて行かれました。
私が連れて行かれたのは、婦人靴のヒールを貼り付ける
工程の職場で、接着剤の強烈な匂いで、吐きそうでした。
前掛けを渡されすぐ作業をするように命じられ、
一通りの工具を預けられ、先輩の指導の下に
作業したのですが中々うまくいきません
遅いとか、へたくそとか、一日めから叱られどうしでした。
夕方七時、荷物を置いてある食堂と言われている部屋で
米穀手帳を集められ、私達のほか10名位の先輩たちと
食事を取ることとなったのです。
食事のおかずが、どんなのだったかは記憶にありません
しかしながら、丼飯を渡された時、とても食べる気が
しなかったのです。なぜなら其れは外米であり、普段
食べてきた山形のご飯とは、到底比較にならない不味さで
まずその匂いに食欲が、わきませんでした。
「食べなかったらよこしな」隣の先輩のいわれるままに
丼をわたすと、彼はたちまち食べてしまいました。
私はとても、悲しく第一目でもうホームシックでした。
其の後私たちは、就寝する部屋に荷物を持って連れて
行かれて、またびっくり其の部屋では、女の人たちが
婦人靴の仕上げをしており、シンナーの様な溶剤で、
汚れをふき取りながら、箱詰めをしておったのです。
やはり20畳くらいの畳の部屋で、壁一面に押入れが
付いておりました。しばらくして作業が終わり、製品
を片付けると、先輩がたが一斉に川の字に布団を敷き
はじめました。私たちを含めて十五人ほどの部屋が
作業部屋、兼、住み込みの人たちの寝室だったのです
後でやさしかった同じ山形出身の先輩に聞いたのですが
二三年すると、殆どのひとがアパートを借りて
そこから通勤するか、転職して行くのだそうです。
・・つづく・・

老兵の半生(就職列車)

「頑張って、こいよ」口々に声をかける、見送りの人たち
父兄、在校生、先生方多くの人たちで、ごった返す
昭和33年三月の、長井駅ホーム。
中学をその月に卒業したばかりの、15、6歳の子供たちが
臨時夜行列車の窓から、顔を出し、ある者は涙を
浮かべながら、手を振っている。
近隣の地域から、集まった子供たちで一杯になった列車
が、ボウーと言う蒸気機関車特有の汽笛を、合図に
ゆっくりとホームを離れて行く。
勿論私もその一員でした。
一路列車は、真っ暗な闇のなかを、終点上野駅に向かって
走って行きます。その頃の日本の景況は
急速な投資拡大に、走っておりそれに伴って
急激な生産増大に伴う、労働力増大の必要があった。
こういった若年の労働者は、将来性が高いという意味と
安い給料で雇えるという意味から金の卵と呼ばれて
もてはやされた。就職希望者数に比べて求人数が著しく
著しく多くなった時期には、更に貴重であるとして
月の石と呼ばれたこともあった
職種としては単純労働(ブルーカラー)が主体であったため
雇用条件や作業環境もかなり厳しく、離職者も多かった。
各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、
戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境だったとも言われる
前述の事が、現実となって私が、実感するのに時間が
かからなかった。
"金の卵"と持てはやされ、各地より中学卒の企業戦士の
卵たちが就職列車に乗せられ都会地に多くが、
送り込まれる行為はその後数年に渡り行われた。
この年代の流行歌に、おさげと花と地蔵さんと」
「上海帰りのリル」「さようなら故郷さん」
「別れの一本杉」「ああ上野駅」等々がありました。
これらは故郷を離れる子供たちの、気持ちとか
集団就職で、新しい人生を切り開いて行こうとする
決意や、望郷の思いを歌った内容が多かったと
記憶してます。
・・つづく・・

老兵の半生(中学生)

「しっかり持てよ、俺ばっかり重いぞ」「もってるよ」
中学三年の暑い夏の日、グランド整備のため二人一組で、
赤土を"もっこ"(縄で編んだ籠に担ぎ棒を通して、前後で
担いで土を運ぶ道具)で、運びながら声を掛け合っていました。
昭和32年のある日でした
当時の新生長井中学校は、一クラス50名単位で、私たちの
学年は七組まであり、私は七組でした。
担任は小柄な23歳の新人の先生で、あだ名が、"あんちゃ
先生"と呼ばれておりました。
二年生になると、全員が卒業後の進路をきめなくては
成らない。今考えると疑問を感じる義務教育のやり方でした
そこで、進学組と就職組に、分けられ一部の学課は
それぞれ、職業科目と高校進学科目の違った授業を
受けることになったのでした。
就職組は、天気のいいときは、校内環境整備の作業が
多かったように思います。その他の日は主に、木工での
物作りが、授業だった気がします。
進学組は、受験の必須科目を主力に学習していたようです。
私も色々悩んだのですが、やはり家庭経済を考えると
早く就職して両親を、少しでも楽させるのが、長男の役目
と就職組を選んでいました。
多分進学組は、一クラスの中で十二三名くらいだったと思います
・・つづく・・

老兵の半生(餓鬼大将)

「会費は五円、じがいも5個、醤油は杯三杯、後は途中調達
いいな、一年生は体だけ。」
昭和30年八月のある日、7、8人の小学生に次の日曜日の
芋に会についての、説明をしている私がいました。
そうです、餓鬼大将になっていたのです。
私以外6年生が、いなかったせいでしたでしょう。
会費はイルカの肉を買うため
"途中調達"とは、芋煮する川原に行く途中、畑が沢山あり
各々が、手分けしてトマト、きゅうり、ナスなどを
失敬してくることを、いいました。
一度として、持ち主から苦情が、あったことは
ありませんでした。
いまなら、どうでしょう・・・・・・
すぐ下の妹が絵がうまく、妹に紙芝居の絵を書かせ、
文は私が書きよく低学年の子供たちや、まだ入学して
ない子供たちを集めては、紙芝居を見せておりました。
小川には、めだかやフナが泳ぎ、夏には蛍がいっぱい
メンコやビー玉、”かくれんぼ”、”かんけり”
”チャンバラごっこ”などが遊びの中心でした。 
小遣いは、多くても月に10円でした。 
電気工事の終わった、電柱の下を銅線の切りくずを、
拾い集めて、廃物やに持ち込み、小遣い稼ぎを、
していたのも、この時代でした。
父もこの頃は、体も良くなり鎌ゃ鍬などの、農家で
使う工具等の販売業で、懸命に働いており、母も近くの
商店に勤務しており、私も松葉杖を使うことなく、走りは
出来ないまでも、その他はなにも不自由ない、体に
回復しており、一家五人のくらしは、相変わらずの貧しさを
除けば、私にとって、一番楽しかった時期だと思います。
・・つづく・・