HOME > 記事一覧

ここから始まる

  • ここから始まる

 3月11日を前に、駅の待合室に鉄道写真家広田泉さんの写真集「ここから始まる」を展示している。背表紙には「2011.11.11羽前成田駅大好き!」のサインが書かれている。震災のあった2011年は、広田泉さんとその仲間の人達との出会いの年である。広田さんは各地の被災地支援を行いながら、羽前成田駅にも足を運んでくれた。

 

 「ローカル線は地元の人たちのもの」「試されるのは地元の人たちの覚悟」「本当の応援とは私達外部の人間が来なくてもやっていけるようにすること」と語りながら、写真展などを開催しては私達と山形鉄道を応援してくれた。

 

 あれから11年になる。コロナ禍で活動もままならず途方に暮れた時、私達は広田さんの言葉を思い出し「ここから始めよう」と語り合った。それぞれが歳をとり、体調を気遣って生きる年齢になったけれども、広田さんはじめ多くの方々から届けてくれた心温まる声援を忘れない。

 

 南相馬市立小高中学校の生徒たちが震災後に皆で作詞した「群青」という合唱歌をテレビで知った。「またね」と手を振るけど/明日も会えるのかな/遠ざかる君の笑顔今でも忘れない/きっとまた会おう/あの街で会おう/僕らの約束は消えはしない/群青の約束/また会おう群青の街で

 

 被災された皆さんに改めてお見舞い申し上げると共に、羽前成田駅開業100周年の今年、ここで縁を結ぶことができた皆さんと元気な顔で再会できることを願っている。

 

一昨年の特別展のようす ⇒ ここから始まる!:おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.06:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

(20)昭和39年の光と影

  • (20)昭和39年の光と影

 長井線にディーゼルカーが導入されてから10年経った昭和39年(1964年)10月1日、東京~新大阪間に新幹線が登場した。夢の超特急である。その10日後の10月10日、アジアで初のオリンピックが開催された。日本中が熱狂の渦に沸き上がる中で、地方からは集団就職列車で若者が故郷を離れて行った。そしてこの時すでに長井線には暗い影が差していた。

 

 昭和36年6月10日に梨郷、西大塚、時庭、羽前成田、蚕桑、鮎貝駅で貨物の取扱いが廃止。昭和39年4月1日には羽前成田、蚕桑の各駅が業務委託駅となり、翌40年4月1日には梨郷、西大塚、時庭、鮎貝駅でも業務委託駅化された。

 

 以前、「成田駅の宝物Ⅰ」で使用済み用紙を利用した手作り封筒を紹介したが、そんな国鉄職員の努力をあざ笑うかのような大きな物流の変革が生まれていたのだ。昭和39年に国鉄は300億円の単年度赤字を出し、昭和41年度には繰越欠損を生じるに至った。昭和43年9月4日には国鉄諮問委員会から「廃止を検討すべき83線」が報告された。こうした動きをにらみ、昭和43年6月27日には、長井線存続既成同盟会が発足している。まさに昭和39年は光と影の分岐点であったのだと思う。

 

手作り封筒の記事はこちらから

 ⇒ 成田駅の宝物Ⅰ:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.03.04:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(19)旅客列車が気動車に

  • (19)旅客列車が気動車に

 長井町、長井村など1町5カ村が合併して長井市が誕生したのは昭和29年11月15日。この日、新生長井市の誕生を祝うかのように長井線の旅客列車がディーゼルカーに代わった。赤湯梨郷間開業から41年、羽前成田駅開業から32年後のことである。長井市史には「煙から解放された」とあるが、当時の市民の率直な感想であろうか。

 

 山形市の知人が昭和30年2月の車両配置表で調べてくれたところによると、この時山形機関区にはキハ45500形が12両配置されていたとのことである。そのうちの何両かが長井線に配属されたと思われる。なお45500型車両は昭和29年から30年にかけて99両製造。昭和49年から廃車が始まり昭和55年には全車が除籍されたようである。

 

 その配置表には、長井線のさよならSL列車となった蒸気機関車59634号も山形機関区に配置されていたと記されています。59634号は今も北九州市に保存されています。長井線を走った初代のディーゼルカーにも思いを寄せたい気がするのは私だけでしょうか。

 

 

【おらだの会】写真は長井市史(第4巻)より。撮影年次、車番、型式等は不明。

【追   記】この写真をご覧になった知人から連絡が入りました。「先頭車両は窓が小さいことから南東北以北向けの寒冷地仕様のキハ22形、後車がキハ17形(45000形から称号改正)とみられる。キハ22形が入っていることから撮影年次は昭和42年以降と思われる。」とのことでした。有難うございました。

2022.03.02:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(18)昭和24年の赤紙?

  • (18)昭和24年の赤紙?

 終戦後の長井線の運行状況について、長井市史第4巻では次のように記されている。

「(大正3年11月15日の赤湯~長井間)開通当時は、客車1日5往復、貨車1回の運行であったが、昭和3年には客車貨車混合で6往復となった。  (略)  敗戦直後は機関車も客車も極度に不足し、昭和20年・21年には長井線は貨車に人をのせて1往復という状況で、列車事情が曲がりなりにも回復し、東京方面への中学生の修学旅行が復活したのは昭和27年度からである。」

 

 成田駅に残されている宝物で終戦後の歩みを辿ってみたい。写真は経理関係者への訓示であり、以前「成田駅の宝物」で紹介したものである。裏面に「24.7.2?」の日付スタンプが押されており、昭和24年のものと思われる。終戦後の混乱が治まらぬ中にあって、職員に服務規律の徹底を呼び掛けたものであろうか。それにしてもこの色を見ると召集令状を連想してしまうのは私だけだろうか。

 

⇒ 成田駅の宝物 事務注意書き:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.28:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

8年越しの夢

  • 8年越しの夢

 昨日の地元紙に山形鉄道の運転士になった社員が紹介された。小学生の時から「将来は運転士」の夢を抱いていた彼は、8年越しの入社試験を経て山形鉄道に入社。その後2年間の勤務しながらの猛勉強を経て、運転免許試験に合格したのだそうだ。

 

 還暦をとうに過ぎた我が身を振り返って、彼のように夢を持って生きてきただろうか、と恥じ入るばかりである。「これからも地元に愛される長井線であり続けられるよう、心地よい乗客とのやりとりと運転を心掛けたい」との言葉に、彼が歩んできた職歴の重さを感じた。

 

 ボーっと生きている我ではあるが、せめて列車に手を振ろう。長井線で旅する人にも、その列車を運転する人にも、それぞれの人生があるのだなぁ、と思いながら。

2022.02.26:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]