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(14)大正11年は希望に溢れた年だった

  • (14)大正11年は希望に溢れた年だった
  • (14)大正11年は希望に溢れた年だった

 これまで羽前成田駅100年物語の第1部として、大正3年頃から昭和10年頃までの成田駅を取り巻く状況を紹介してきました。その中でも成田駅が開業した大正11年は、歴史的な分岐点になった年でないかと思われます。第1部の締めくくりとして大正11年を概観したいと思います。

 

 まず大正8年(1919年)に公布された地方鉄道法によって軽便鉄道法が廃止されます。これによって軽便鉄道の呼称も大正11年9月2日で廃止され、羽前成田駅開業の時は長井軽便線は長井線となっていました。

 

 さらに大正11年4月10日に改正鉄道敷設法が公布されます。この法律は国が整備すべき予定路線を示したものですが、その別表第25号(写真参照)に「山形縣左澤ヨリ荒砥ニ至ル鐵道」として左荒線が明示されることになったのです。しかもその実施については閣議決定されたとのことです。

 

 白鷹町史(現代編)によれば、「左荒線の建設については、国としてその建設を、昭和11年4月10日の閣議で決定していたものであった。その閣議で決定した内容は、昭和15年度の完成ということと、そのための予算を特別議会に提出することであり、昭和12年4月には測量のための杭打ちまで行われていたのである。それが、昭和15年の1月11日に日中戦争のために計画が中止され、戦後になって、昭和21年8月1日に昭和22年度から再着工するとの通知が出されながら、それも立ち消えになった線路である。」と。

 

 左荒線は圏域の更なる発展への夢であり希望でもあったはずです。今から100年前、一番列車を歓喜で迎えた大正11年は、長井線の歴史の中で最も輝いて、豊かな未来を確信できた年であったかもしれません。

 

 

【おらだの会:写真はアジア歴史資料センターより】

2022.02.18:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

山形鉄道の硬券いいなぁ

  • 山形鉄道の硬券いいなぁ

令和4年1月15日  午後7時59分

 フラワー線、初乗車!! あと数分で列車来ちゃうんですけど書かせて下さい。羽前成田すばらしい!! 木造駅舎で国鉄運賃表あって、ディスカバージャパンの広告あって・・・。あの時代(自分は生まれていない)にタイムスリップしたかのようでした。また来ます。今度は暖かい昼に来ます    (タチカワから)

 

 追記 山形鉄道の硬券いいなぁ

 

 

【おらだの会】写真は、以前、山形に住む知人から古い乗車券のデータを送っていただいたもの。「昭和53年のA型常備乗車券で有効期間2日のため青色地紋になっている。(写真はないが)裏面に赤い色鉛筆で線が引かれており初売券である。」などの説明を受けていた。(委)は業務委託駅であることを示すものでしょうか。昭和59年からは業務委託駅から簡易委託駅となったが、その時の記号は(簡)となるのだろうか。

 

2022.02.16:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

映画「いしゃ先生」に映ってました

  • 映画「いしゃ先生」に映ってました

令和4年1月

 山形市から来ました。成田は私のルーツです。父の生家があり幼少の頃からよく連れてきてもらい遊びました。父母、祖父母、叔父叔母たくさんの身内がこの駅を利用していたんでしょう。戦時中はこの駅から出征したんだろうね。

 

 今もそのまま残るこの成田駅。今では「風情がある」という表現になってしまうのでしょうがいつまでも大切にしてもらいたい。ちなみにこの間「いしゃ先生」という西川町の女医さんの映画でこの駅が映っていました。平山あや主演で間沢駅の場面でした。フラワー長井線、今度乗ってみたいです。 (by Aki)

 

 

 当時の記事はこちらからどうぞ

「いしゃ先生」を観て来ました:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.14:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

(13)夢を引き継ぐ 佐々木素助

  • (13)夢を引き継ぐ 佐々木素助

 長井村一の資産家と評された加藤五左エ門が破産の道をたどることになった原因の一つに成田製糸工場があった。

 

 成田製糸工場は、長井市境町(現在の栄町)の竹名清助が成田駅南(赤間伴右エ門の南)に計画し、昭和元年の秋から土地買収が始められたものである。翌2年5月頃、成田駅に工場建設に係る大量の材木が代金引き換えで送られて来たが、当時駅前に支店を出して運送業をしていた加藤五左エ門がその代金3万円を弁償することとなった。

 その後加藤は次第に成田製糸工場の経営に参加することになり泥沼に足を踏み入れることになった。長年長井村第一の資産家を誇っていたが、之から数年後に破産することになるのである。昭和2年には金融恐慌あり、昭和3~4年までは何とか操業していたが、昭和4年秋の台風のため工場が倒壊し操業不能となった。昭和6年10月頃債権者による建物競売となり、加藤酒屋も破産することとなった。  

(沙石集 「幻の成田製糸工場」より)

 

 加藤氏の運送店の事務を担当していた佐々木素助氏は、その後自らが代表となり佐々木運送店を創業した。さらに出資者を募り成田劇場栄楽館を再建し、昭和30年まで運営したのである。成田駅においでになったご婦人がその当時を振り返って、「栄楽館で映画を見て、青栄そばやで支那そばを食って帰るのが最高の楽しみだった。」と語ってくれたのを思い出す。佐々木素助氏は加藤氏の夢を引き継ぎ、今も人々の記憶に残る場所を提供してくれていたのだった。

 

 成田駅界隈の歴史を辿って思うことがある。それは時代の荒波に翻弄されながらも新たな事業に果敢に挑戦していった先人の気概である。その気概は市内で最も早く結成された成田駅協力会に、そして環境整備活動を展開した駅前いきいきクラブの先輩方に引き継がれていたのではないだろうかと。鉢巻きに法被姿の佐々木氏(写真左から2番目)がとても眩しく見える。

 

 

 

【写真提供:宮崎正義氏/撮影年月不詳】

2022.02.12:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

  • (12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

 加藤酒屋は成田駅前のあんびん屋と松林堂菓子舗の間にあった。写真は大正2年10月26日の米澤新聞に掲載された加藤酒屋の広告である。赤湯~梨郷間が開業した記念号に掲載されたものであり、紙面の約半分を占める程の大きさである。特約店である旭屋が宮内町の事業者であったこともあるのだろうが、当時の加藤酒屋の事業規模を示すものと考えられる。

 

 加藤五左エ門は大正11年に鉄道が開通すると駅前に支店を建て菊地秀蔵氏と佐々木素助(そうすけ)氏の二人に住宅を建てて住まわせ、2年後に劇場栄楽館を自ら社長となって建設したのである。菊地秀蔵氏の住宅は(現在の長谷部本店近くに)総2階建てで料理屋をしていた。佐々木素助氏の一部を酒屋の運送業の事務所にしていた。(沙石集より抜粋;カッコ部分は挿入

 

 成田には3軒の酒屋があったと言われている。「沙石集 成田の豪商たち」の中では、中の酒屋(佐々木宇右衛門の分家 佐々木太左エ門)、下の酒屋(飯澤半右エ門の分家 飯沢半十郎)を紹介しているが上の酒屋の記述はなく、加藤酒屋が上の酒屋なのかは確認できない。また横山吉治氏の調査(沙石集 資料「組直り面付けと伍什組制度について」)によれば、加藤五左エ門は成田舘地区に居住しているが、宮摂取院の壇家とされている。ふるさとめぐり致芳では「ままの上酒造が酒屋の店を開く」とあることから、当時の長井町との関連も伺えるが、残念ながらこれ以上の確認はできない。

 

 さて加藤五左エ門は「長年長井村第一の資産家を誇っていた」とされるが、その後間もなく没落することになる。鉄道開通に合わせた好景気も大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌、さらには世界恐慌と続く大波に地方も翻弄されることになる。

 

2022.02.10:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]