この鉄道敷設法改正案は、第43回帝国議会(大正9年7月1日 ~大正9年7月28日)において成立した。小林代議士の引退後、長井町衆は、同じ置賜出身の西方利馬議員を頼りに、鉄道省建設局長八田氏と交流のあった荒砥出身の佐野利器博士や長井町の資産家川崎八郎右衛門の御曹司川崎吉兵衛など、あらゆる人脈を通じて鉄道敷設法の再改正すなわち「長井起点」を目指したのでした。大正11年2月22日、政友会から西方利馬他27名の議員立法が衆議院事務局に提出された。そして27日、衆議院本会議で可決され、貴族院での審議となった。しかしながら、この改正案には今泉坂町線の他に鉄道省の技術畑からも反対の声が出されていた佐賀県内の路線変更案も含まれていた。さらに今坂線の起点を長井に変更することについては、米沢市が「米沢の繁栄を奪うもの」として改正阻止に全力を挙げたことなどもあって、この改正案は成立しなかったのである。
長井町はその後も鉄道省への陳情を繰り返していたが、鉄道省から「今坂線を着工しても、白川の鉄橋は新設せず、長井線の白川鉄橋を重複利用する。さすれば将来陸羽越横断鉄道(仙台~山形~坂町)が完成した時に、萩生~長井間の鉄道新設は可能である。」との考えが出されたので、左荒線の早期実現を果たし、その先に長井駅経由の実現を目指すことにしたのでした。しかしながら「左荒線はまぼろしのまま」でその夢を閉じることになったのでした。それにしても、当時の人々は白川信号場をどんな思いで眺めたのであろうか。
長井線はその後、第三セクターとなった。JRとなった米坂線のホームからは国鉄時代の看板等は一掃されたが、長井線のホームには国鉄時代の看板が多く残されている。不思議な縁を感じるのは私だけであろうか。それにしても米坂線が令和4年の水害から復旧の目途が立っていないことは心配な事である。
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→ 長井線リポート(19) 面白景色の宝石箱 in 今泉:おらだの会 (samidare.jp)
【おらだの会】写真は白川信号場付近です。なお本稿は「長井を変えた横山八次局長」をもとに創作しました。