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成田駅も開花!

  • 成田駅も開花!

東京目黒川に続いて成田駅の十月桜も開花しました。成田も東京並みになりました。(笑)

それはさておき今年のお花見は、長井線全線開通100周年記念日の翌日(4月23日)の予定ですが、それまで桜が残っていてくれるでしょうか。

 

昨年は4月11日に開花の記事を投稿していたようです。こちらからどうぞ

 → 十月桜咲きました:おらだの会 (samidare.jp)

2023.03.24:orada3:コメント(0):[停車場風景]

第15話 逢いたい人に逢えそうな場所  (羽前成田駅)

  • 第15話 逢いたい人に逢えそうな場所  (羽前成田駅)

 羽前成田駅は、長井線が長井駅から鮎貝駅まで延伸開通した大正11年(1922年)に開業しました。洒落た半切妻のポーチが乗降客を迎える洋風基調の駅舎です。構内カウンターを支える持ち送りには幾何学的な意匠、荷物受付窓口の腰板は一枚板の掘り込み、屋根の破風板端部にも装飾的な彫りが施され、大正期からの鉄道の歴史を伝える貴重な建築と言われています。平成27年(2015年)8月4日、駅本屋が西大塚駅と共に登録有形文化財に登録されました。

 

 

 若い二人連れが、駅舎のあちこちをカメラに収めている。女の子が待合室の囲炉裏を眺めながら、「懐かしいねぇ。逢いたい人に逢えそうな場所だね。」と言った。相方も笑顔で頷いている。

 

 この駅に母と訪れたのは3年前の8月。西山の麓にある母の実家に誰も住まなくなって、お墓を東京に移す準備に来たのだった。お寺さんと親戚に挨拶をして、帰りの列車を待っていた。防雪林の間から爽やかに風がそよぎ、風鈴の音色も涼やかだった。

 

 母は問われるともなく語り始めたものでした。「この駅から高校に通ったんだ」、「就職するときには、ここでみんなに見送ってもらったものだ」。「お正月に帰った時は、お父さんがここまで迎えに来てくれた。車の中では何から話したらいいか悩んだもんだよ。」と。私はその時、故郷の家やお墓を棄てなければならない母にとって、この駅が昔のままに残っていてくれて本当によかったなと思ったものでした。

 

 今日は一人でこの駅を訪れ、母と過ごした時間を想い出している。あの時と同じ景色を眺めながら、母の人生に思いを馳せています。ここは私と母の想い出の場所、そして逢いたい人に逢える場所だと思うのです。想い出の場所を守っていてくれてありがとうございます。

広田泉伝[1] 西大塚駅に降臨

  • 広田泉伝[1] 西大塚駅に降臨

 来月の22日から始まる広田泉写真展を前に、広田泉さんとの交流経過をまとめておきたい。おらだの会自身のこれからを考えることになると思うからである。

 

 3.11の大震災から1か月後の平成23年(2011年)4月29日から西大塚駅で「東北の鉄道応援チャリティー写真展」が開催された。鉄道写真家米屋こうじさんの呼びかけに広田泉さん始め中井精也さん、その他写真愛好家15名程が呼応して行われたものである。この写真はその時の記念写真である。参加された皆さんの顔をみると、「駅に集う人たち」というタイトルが自然と浮かんでくる。和やかに共通するものが通い合っているように思える。

 

 広田さんと山形鉄道とのかかわりは、ここから始まったのではないだろうか。来訪神的に言うならば「西大塚駅に降臨」である。そのきっかけをつくってくれたのが米屋こうじさんである。米屋さんは4月23日に広田さんの人と作品について語ってくれることになっている。どんな話が聞けるか楽しみである。

 

 

 写真展の案内はこちらから

  → 広田泉写真展を開催します:おらだの会 (samidare.jp)

2023.03.20:orada3:コメント(0):[がんばるニャンズ]

第14話 学び舎と駅舎と (あやめ公園駅)

  • 第14話 学び舎と駅舎と (あやめ公園駅)

 あやめ公園駅は、平成14年(2002年)6月に長井工業高校の生徒とPTAの要望に応えて、市民団体の募金活動による寄付金で開業した駅です。待合室は内外装すべて同校の生徒をはじめとして学校職員、PTA、OB等の手作りにより建設されました。長井工業高校は、「長工生よ地域を潤す源流となれ」をモットーに、有為の若者を輩出し、地域産業を支えてきた学校です。

 同校にはかつて、昼間部の他に夜間部があり、私の叔父さんも夜間部の定時制に通った一人でした。昭和30年代から日本は高度経済成長に突入し、地方の次男、三男は集団就職列車に乗って郷里を離れていきました。家に残った長男は家業を継ぐか、工場で働くことになる。その頃は給料も安く生活は苦しかった。家計を助け貧しさから脱却するためには資格を取る必要があった。けれども高校を卒業していないとその試験を受けることもできなかった。朝8時から夕方5時まで工場で働き、6時から夜の10時まで高校の授業を受けた。家にはほとんど眠るために帰ったようなものだったそうです。4年間の課程を終えて卒業証書を社長に見せた時、「頑張ったな。おめでとう」と何度も肩を叩いてくれた。あの時のうれしさは、今でもはっきりと覚えているという。

 その定時制課程も昭和57年(1982年)3月で、20年の歴史に幕を閉じることになりました。その時の後援会長は吉田製作所㈱社長の吉田功さんだった。会長自身も定時制課程の卒業生でした。会長は、最後の式典に坂本九さんに来てもらいたくて電話をしたそうだ。当時、坂本九さんは「見上げてごらん夜の星を」を歌い、同名の映画では夜学生を演じていたのである。定時制課程に通う生徒たちは、夜空を見上げてはこの歌に励まされたそうだ。そんな思いを知る会長は、最後の卒業生8人を励ます会にぜひ来て欲しいとお願いしたのです。この申し出に九ちゃんは、ノーギャラでOKしてくれました。前の晩、上山のホテルで打ち合わせをした際に、九ちゃんの様々な苦労話を聞いたそうです。「今回はよく頑張って私を呼んでくれましたね。」と慰労された時は、実行委員一同思わずうれし泣きしたそうです。会長さんは、今度はちゃんとギャラを払って九ちゃんを呼びたいと心に決めたそうです。でも、3年後の昭和60年(1985年)8月12日、九ちゃんは日航機墜落事故で亡くなったのでした。

 

 その後、校舎の老朽化などを背景に同校の廃校が検討課題に上がります。その際も卒業生や地元企業者が中心になって同盟会を結成して、学校の存続と校舎の建て替えを実現したのでした。それは平成14年、あやめ公園駅が開業したと同じ年のことです。この駅には、長井のものづくに情熱を注いだ、人情味豊かな人々の思いが込められているように思う。

 

 

【おらだの会】写真提供:山形鉄道㈱

第13話 ある運転手のこと その2(夕暮の長井駅)

  • 第13話 ある運転手のこと その2(夕暮の長井駅)

 山形鉄道開業30周年となった平成30年の1月のこと、2週間にわたって雪が降り続いた。除雪車は午後10時頃に長井駅を出発し、翌朝4時半頃までの作業となる。6時の一番列車に間に合わせなければならないのである。除雪車には監督者と運転手と装置操作員2名が乗り込んでの作業となるのであるが、2月3日、修一は監督者として乗り込んでいた。30年間働き続けたラッセル車が梨郷駅の手前でついにダウンした。以来、列車は2週間にわたって運休となった。その間はバス代行をしたが、各学校付近の道路は交通渋滞を引き起こした。やがてJRの応援ラッセル車に応援してもらい、ようやく復旧することができたのである。この間、社員は全員殆んど不眠不休、独身社員は会社に泊まり込みの毎日であった。そんな時、列車を利用していた高校生から「応援メッセージ」をもらった。嬉しかった。けれども、氷となった雪の塊に幾度となくツルハシを振り落とすときに、涙が出てきてしょうがなかった。老いぼれの除雪車に思わず「ごめんな」と謝っていた。

 

 次の冬は、雪が少なくてほっとした。けれども、あの年のような豪雪はいつ起こるかもしれないものだ。上下分離方式と言われるが、列車や線路だけでなく、ラッセル車も、信号システムも更新しなければならない時期になっているのだ。冬を前にしての整備作業の度に、何度となく「今年までもってくれるか?」と語りかけるのであった。

 

 ここで働いた年月を総括するには時間がかかるだろう。若い社員に何も語るものはないが、この会社で働きたいと思ったその気持ちだけは忘れて欲しくないと思う。毎朝、列車に手を振ってくれた子供たち。各駅で花を育ててくれた人たち。そして朝に夕に運転席から眺めた葉山の姿が目に浮かんできた。優しい発車音を残しながら、列車がホームを離れていく。修一はそっとつぶやいた。「ありがとうYR」