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長井線を走った蒸気機関車(3) 当時の客車もマッチ箱

  • 長井線を走った蒸気機関車(3) 当時の客車もマッチ箱

 長井市史第3巻(昭和年版)には、当時の客車について次のように記述されています。軽便鉄道は・・・機関車も車両も小型のものであった。乗客用の車両は、俗にマッチ箱といわれたもので、乗客用の腰掛けは向かい合わせに横に区切って作られており、その区切りごとにドアがついていたから、発車停車の際は車掌がいちいちドアのカギを外したり掛けたりした。乗降口は、腰掛の数だけあった。本線を走る汽車がボギー貫通式になっているのに、軽鉄はマッチ箱列車と煙突の長い豆機関車であった・・。(第3巻 P566)

 

  マッチ箱と呼ばれていた客車の映像を探しあぐねていましたが、ようやく京都にある加悦sl広場に同じ形式と思われる車両(ハ4995)が保存されていることを知りました。上の写真は、広場を運営している宮津海陸運輸㈱の方から提供いただいたものです。

 軽便鉄道の象徴ともいわれる側面乗降式客車(旧式4輪車)は、一名マッチ箱とも蔑称されていたが、長井線にも本線並みのボギー車が運転されることになった。それは昭和5年10月1日のことである。(第3巻 P570) 

 

→ 当時の客車はマッチ箱!?:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

長井線を走った蒸気機関車(4) 最後の旅客牽引車86型

  • 長井線を走った蒸気機関車(4) 最後の旅客牽引車86型

 今、長井市内の各所に長井市市制施行70周年を祝う幟が建てられている。70年前の昭和29年11月15日に長井町、長井村など1町5か村が合併して長井市が誕生したのである。そしてこの日は、長井線の旅客列車がディーゼルカーに代わった日でもある。長井市史第4巻(昭和60年発行)には「煙から解放された」とあるが、当時の市民の率直な感想であろうか。

 

 長井市誕生に沸き立つ陰で68691号車はひっそりと退役したのではないだろうか。96型が「さよなら列車」として盛大に見送られたのに比べると雲泥の差のようにも思える。上の写真は、長井市職員として長井線問題を担当し、退職後も羽前成田駅協力会事務局長を永く務められた小口昭氏が「長井線の今・昔」に掲載しているものである。この1枚の写真が、68691号をもう一度私たちの前に登場させてくれることになるのでした。

 

 → (19)旅客列車が気動車に:おらだの会 (samidare.jp)

長井線を走った蒸気機関車(5) 最後の86型との再会

  • 長井線を走った蒸気機関車(5) 最後の86型との再会

 駅茶においでになった友人から大変なことを教えてもらった。山形市十日町の第2公園に展示されている機関車は長井線を走った機関車だ、というのである。しかもその写真が「長井線の今・昔」という冊子に出ているというのである。友人から送られた写真を見ると、確かに同じ68691号のプレートであることが確認できた。

 

 鬼滅の刃の無限列車が86型をモデルにしていて、同型車が山形市内に展示されていることは地元紙で紹介されていたが、まさかその機関車が長井線で客車を最後に牽引していたとは驚きである。小口氏が「長井線の今・昔」を残さなかったら、そして鉄道に詳しい友人との交流がなかったら、68691号との再会はなかったであろう。市制施行70周年にあたる今年、この記事を書いているのも、なんとも不思議な思いである。

 

 関連記事はこちらからどうぞ

 → 鬼滅のSLは96の前任車:おらだの会 (samidare.jp)

 → (30)最後の86型も生きていた:おらだの会 (samidare.jp)

 

長井線を走った蒸気機関車(6) 96型

  • 長井線を走った蒸気機関車(6) 96型

 私たちにとって最もなじみ深い蒸気機関車は96型(キュウロク)であろう。86型から96型に移行したのは何年頃であったのだろうか。「中ノ目歴史散歩」(中ノ目の歴史を辿る会編/飯豊町:平成27年3月)では、次のような記事が残っている。

//1931年(昭和6年)8月10日、今泉~手ノ子間が延伸開業した。開業当初は、トロッコ列車でマッチ箱といわれる超小型機関車で、豆機関車と呼んでいた覚えがある。その後、86型SLに変わった。(略)。1936年(昭和11年)8月31日、米沢~坂町間全通後は、豆機関車から96型SL機関車に変わり4両編成となった。//

 

 長井線もほぼ同じであるとすると、昭和11年頃からさよなら列車となった昭和47年までの間は、96型機関車が走っていたことになる。96型は「山親父」と呼ばれるように勾配に力を発揮する機関車である。このため長井線が昭和29年に客車がディーゼル車になってからも、米坂線では昭和47年まで客車を牽引していた。宇津峠を越える59634号の雄姿が残されている。

→ 雪の行路 米坂線にて (youtube.com)

 

 上の写真は小口昭氏のものであるが、96型機関車の写真の多くは、昭和47年の貨物業務からの退役前後のものである。これまで投稿されたブログの記事をギャラリー風にめくってみて欲しい。

 <昭和36年に成田など6駅で貨物取扱廃止>【100年物語】

 → (21)長井駅でも貨物取扱いが廃止:おらだの会 (samidare.jp) 

 

 <貨物列車にも人生を語る背中がある?> 【駅茶こぼれ話】

 → 貨物列車の背中:おらだの会 (samidare.jp)

 

 <いよいよ「さよなら列車」の日> 【停車場風景】

 → さよならSLの頃  停車場風景:おらだの会 (samidare.jp)

 

 <長井駅構内の線路の配置もよくわかります> 【停車場風景】

 → さよならSLの頃  停車場風景Ⅱ:おらだの会 (samidare.jp)

 

 <松川橋梁を走る59634号> 【駅茶こぼれ話】

 → 「さよならSL」から50年:おらだの会 (samidare.jp)

 

長井線を走った蒸気機関車(7) 79606号のこと

  • 長井線を走った蒸気機関車(7) 79606号のこと
  • 長井線を走った蒸気機関車(7) 79606号のこと

 左の写真は「この模型は最近発売されたものですが、これと同じ番号の蒸気機関車の写真が成田駅に飾られてあったはず。」とのメッセージを添えて、知人が送ってくれたものである。この模型のプレート番号は79606であり、それは地元の写真愛好家であった小笠原弘氏が提供してくれた写真に映っていたものと同じであった。

 

 今回ポスターに使わせてもらった右の写真は、昭和47年冬の羽前成田駅の風景である。この年に貨物輸送からも蒸気機関車は退役することになる。真っ白い雪景色の中で汽車を見送る駅員の姿は、その後の国鉄改革の嵐を予感させるようにも見える。鉄道写真で幾多の受賞歴のある小笠原氏の作品の中でも秀逸のものだと思う。

 

 小笠原氏は今年の6月、亡くなられた。それと時を同じくするように、この79606号が模型として私たちの前に現れた。9634号や59634号のように「さよなら列車」として盛大に見送られることもなかった機関車が、蘇ったのである。小笠原氏に心からの哀悼の意を表すると共に、その作品と共に小笠原氏の功績を末永く伝えていきたいと思う。