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第11話 青春列車~長井線物語(南長井駅にて)

  • 第11話 青春列車~長井線物語(南長井駅にて)

 車内アナウンスが次の停車駅を告げる。窓越しに高校生がホームで談笑している姿が見えた。木島は、整理券とコインを運転手に渡して、ホームに降りた。白ツツジが描かれたシールが貼られたサッシ戸を開けて、待合室に入る。長い壁には列車時刻表やポスターなどに交じって「物語のある風景」と題した長井高校写真部の作品が展示されていた。木島は、飾られた作品を見ながら、「あの頃と同じだなぁ」とつぶやいた。

 

 木島は高校の3年間は、学校の近くに下宿して、週末に家に帰る生活を送っていた。クラブ活動は写真部。もともとは「帰宅部よりはいいだろう。」と入部した木島であったが、同級生が4人しかいなかったので、部長になってしまった。部長になったとたんに、羽前成田駅で活動しているおらだの会の人達と交流が生まれ、同駅の写真展を見学したり、プロの鉄道写真家の指導を受けたり、さらには初めての校外展を開催することになったのでした。展示会場となった羽前成田駅では、地元の人達の芋煮会を手伝う羽目になった。見知らぬ大人達の前で挨拶をした際の緊張感を、今も可笑しく思い出すのでした。

 

 木島が今も大事にしまっているものが二つある。一つは同級生が撮ってくれた1枚の写真で、木島ともう一人の同級生と顧問の先生が、夕方のホームでカメラを構えている写真である。もう一つが、顧問の先生が書いた第1回の校外展の挨拶文である。

 

「物語のある風景~高校生がつくる長井線物語」をテーマとし、カメラを手に沿線をめぐった生徒たちには、いったい何が見えたのでしょうか。一見するといつもと変わらない日常の風景も、そこに自分自身や友人の姿を映しこむ1枚にすることで、『あのとき、わたしは、みんなと、確かにこの場所にいた・・・』という貴重な「記憶」の1枚になったのではないでしょうか。ぜひ生徒たちには、10年後、20年後、この1枚の「記憶」を手に取ってもらい、そこに描かれた「物語」にもう一度思いをはせてもらえればと思います。ご来場になった皆さまにも、高校生が描いた「物語」を少しでも感じとっていただければ幸いです。                    長井高校写真部顧問

 

 上り列車に乗る生徒たちがホームに集まり始めた。私は、確かにみんなと、この場所にいたのだ。『長井線物語』は私にとって最高に美しい物語であった。木島は思った。それぞれの道を頑張っている友達と恩師を囲んで、その後の物語を語り合いたいものだと。

第10話 ハス田のこと (時庭駅)

  • 第10話 ハス田のこと (時庭駅)

 列車は白川橋梁を超えて北に進む。広がる田園の真ん中を北進すると防雪林に守られた時庭駅が見えて来る。この駅は開業当初は島式2面のホームを有していたが、東側のレールが取り払われ、平成8年(1996年)に公民館と併設して待合室が建てられた。

 

 私は撮り鉄の仲間から「ハスが見頃だよ。」との連絡を受けて時庭駅に向かった。お盆近くの強い日差しの中で、桃色の大輪の花が風に揺れていた。大賀ハスは約2千年前の遺跡から出土した種子を発芽させたもので「古代ハス」とも呼ばれるものである。地元の本間さんとその仲間がハス田を造り育て続け、今では人気の撮影スポットになっている。畔道で本間さんに話を伺うことができた。毎年手間がかかり、特に水の管理がたいへんなこと。そしてハス田に込めた思いを熱く語ってくれました。

 

 「わしらここで生まれて、ここで暮らしてきた。わしら、やっぱりここが好きなんだな。だから、時庭が盛り上がるように、いろんな人にここに来てもらって交流できるような名所をつくりたい。そして『元気な地域だね!』と言われるようにしたいんだ。ここだと列車からの眺めは最高だし、第一、古代ハスって名前も良いべした。」

 

 駅周辺にはグラウンドゴルフ場とハス田の他にコスモスやソバ畑を作り、四季を通して楽しめるように整備しているという。お話を伺った数年後、本間さんは体調を崩し帰らぬ人となったことを知った。本間さん亡き後、仲間が相談して「ハス保存会」を発足させ、ハス田を「本間ガーデン」と名付けて本間さんの意志を受け継いでいるという。

 

 時庭駅の駅ノートには優しいイラストに次のコメントが添えられていた。「梅雨のあいま『庭』の名を冠するその駅は、今日も綺麗に咲いていました。」。この景色には、この地に生きた一人の思いがあり、それを受け継いでいこうとする地域の人々の思いが映し込まれているのだと思った。

 

 

 

※昭和60年(1985年)頃の時庭駅はこちらから

 → 30年前の時庭駅:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)      

 

※平成28年(2016年)に行われた三駅(西大塚・時庭・成田)合同写真展の様子はこちらから

 → 三駅合同写真展:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)   

 

第9話 政争の駅 その2(今泉駅)

  • 第9話 政争の駅 その2(今泉駅)

 この鉄道敷設法改正案は、第43回帝国議会(大正9年7月1日 ~大正9年7月28日)において成立した。小林代議士の引退後、長井町衆は、同じ置賜出身の西方利馬議員を頼りに、鉄道省建設局長八田氏と交流のあった荒砥出身の佐野利器博士や長井町の資産家川崎八郎右衛門の御曹司川崎吉兵衛など、あらゆる人脈を通じて鉄道敷設法の再改正すなわち「長井起点」を目指したのでした。大正11年2月22日、政友会から西方利馬他27名の議員立法が衆議院事務局に提出された。そして27日、衆議院本会議で可決され、貴族院での審議となった。しかしながら、この改正案には今泉坂町線の他に鉄道省の技術畑からも反対の声が出されていた佐賀県内の路線変更案も含まれていた。さらに今坂線の起点を長井に変更することについては、米沢市が「米沢の繁栄を奪うもの」として改正阻止に全力を挙げたことなどもあって、この改正案は成立しなかったのである。

 

 長井町はその後も鉄道省への陳情を繰り返していたが、鉄道省から「今坂線を着工しても、白川の鉄橋は新設せず、長井線の白川鉄橋を重複利用する。さすれば将来陸羽越横断鉄道(仙台~山形~坂町)が完成した時に、萩生~長井間の鉄道新設は可能である。」との考えが出されたので、左荒線の早期実現を果たし、その先に長井駅経由の実現を目指すことにしたのでした。しかしながら「左荒線はまぼろしのまま」でその夢を閉じることになったのでした。それにしても、当時の人々は白川信号場をどんな思いで眺めたのであろうか。

 

 長井線はその後、第三セクターとなった。JRとなった米坂線のホームからは国鉄時代の看板等は一掃されたが、長井線のホームには国鉄時代の看板が多く残されている。不思議な縁を感じるのは私だけであろうか。それにしても米坂線が令和4年の水害から復旧の目途が立っていないことは心配な事である。

 

今泉駅に残る国鉄風景はこちらからどうぞ

 → 長井線リポート(19)  面白景色の宝石箱 in 今泉:おらだの会 (samidare.jp) 

 

 

【おらだの会】写真は白川信号場付近です。なお本稿は「長井を変えた横山八次局長」をもとに創作しました。

第9話 政争の駅 その1(今泉駅)

  • 第9話 政争の駅 その1(今泉駅)

 西大塚駅を出てしばらくすると今泉駅に到着する。宮脇俊三が玉音放送を聞いたことで有名な駅である。かつてこのホームにはキオスクの売店があった。また転車台の跡も残っている。長井線と米坂線は、ここから2キロほど線路を共有した後に旧白川信号場で分岐するが、そこまでが今泉駅の構内扱いとなっている。マニア垂涎のこの区間には、この地方の壮大な政治ドラマがあったのでした。

 

 「長井の奴らはけしからん。人が事情を尽くして協力を要請した事には一顧も与えず、自分の都合の良いことは図々しく訴えて来る。面を洗って出直して来い。」。小林源蔵代議士は、長井町の陳情団に怒声を上げた。事の発端は、大正8年の暮れも押し迫った頃、鉄道敷設法の改正案が新聞に公表されたことにある。すなわち今後12年以内に建設する第一期予定線に、羽越横断鉄道(現米坂線)のうち「今泉坂町線」を指定することが提案されたのである。羽越横断鉄道は明治28年に公布された鉄道敷設法に予定路線に指定されていたのだが、今日まで着工されずに地元の待望久しかったものであった。しかしながらこの報道によって置賜には二つの憤りが生まれることになった。長井町では「起点は長井にすべきだ」との憤懣であり、米沢市では「米沢からの直接線でないのか」という不満である。

 

 もともと横断線は、坂町から小国、中津川を通って米沢に至るルートを予定していた。しかしその後、小松町からの猛運動が展開された結果、小国~手ノ子~小松~米沢となったのである。鉄道省が鉄道会議に提出した案では、米沢坂町線を第一期予定線に昇格させるものであったが、すでに長井線が建設されていたことから二つの路線が並走することとなるため、鉄道会議では今泉・坂町間だけを承認することとなったのである。鉄道省出身で明治45年から衆議院議員となった小林代議士は、鉄道省関係に大きな影響力を持っており、長井線の実現にも貢献した人物であった。しかし地元の米坂線ではそれが認められず、その憤懣を長井町の陳情団にぶつけることになったのであった。

第8話 日直室のキリスト画 その2(西大塚駅)

  • 第8話 日直室のキリスト画 その2(西大塚駅)

 やがてUさんにも召集令状が届きました。入営の前日、駅に顔を見せたUさんは、私に一枚の絵を渡してこう言いました。「私が戦地から帰って来るまでこれを預かってくれないだろうか。もし無事に帰って来たその時は・・・・。今から母と親戚で最後の晩餐です。明日は宜しくお願いします。」と。そしていつもの柔和な笑顔を残して帰って行ったのでした。私は「どうかご無事で」と言うのが精一杯でした。

 

 翌日、いつもと同じように壮行の儀式が始まりました。Uさんの家では、昨夜はどんな会話が交わされたのでしょうか。Uさんは最後までお袋さんと目を合わせることはせず、遠くの空に視線を向けていました。そしてひと際大きな汽笛と長い黒煙を吐き出して、列車はホームを出て行ったのでした。

 

 戦況は刻々と悪化の一途をたどっていきました。奥羽線で働いていた友人からは、兵隊を移動させる軍臨(軍用臨時列車)に初めて乗務した時は、客車の窓は鎧戸が全部降ろされ、兵士の姿が全く見えないようになっていて、みだりに会話することも許されなかったと教えられました。また車掌として乗務していた時に空襲に合い、機銃掃射に遭遇したとも聞きました。戦争の恐怖が身近に迫っていました。この地に居て「死の恐怖」と戦うことが、遠く離れた人を思うことにつながるような気がしたものです。

 

 やがて終戦となり兵隊さんが戦地から帰って来ました。私は駅長の許しを得て、受け取ったキリストの肖像画を日直室に飾りました。そして毎朝、祈りを捧げるのが日課となっていました。けれども、Uさんが帰って来ることはありませんでした。しばらくして私は縁あってこの町を離れることになりました。十数年ぶりで訪れた駅舎は、昔のままの姿で迎えてくれました。ガラス窓の向こうに、Uさんや共に働いていた仲間の姿が蘇ってきました。優しい笑顔のキリスト画を想い出しながら、あの時代、私たちは確かにここで生きていたんだと思うのでした。

 

 

【おらだの会】 「兵隊さんの汽車~幻の戦時童謡」はこちらからどうぞ

  → 汽車ポッポの歌:おらだの会 (samidare.jp)