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第17話 蚕は死して名を残す その2 (蚕桑駅)

  • 第17話 蚕は死して名を残す その2 (蚕桑駅)

 昭和15年(1940年)5月には、蚕桑村を中心とする西置賜蚕種共同施設組合が設立され事務所を長井町、山形県蚕業取締所長井支所内におき、蚕種製造所は蚕桑村横田尻に置き、蚕種を製造することになった。さらに昭和25年(1950年)6月、貞明皇太后陛下(大正天皇后)が大日本蚕糸会総裁として蚕桑村に来村され、丸川与一氏宅を視察されている。その時のことが「蚕桑の郷土誌」に書かれているのでその一部を紹介したい。

 

 

 片田舎のむさ苦しい家に皇太后陛下を奉迎できるとは思いもよらない事でした。御下問になったお言葉の一端から思いかえして、陛下は蚕糸業について実に深い御理解と専門的な御見識を持って居られるように拝察しました。

  陛下 品種は何ですか

  私  春光、銀月、秋月の3元交雑です

  陛下 毎年ですか

  私  今年初めての品種です

  陛下 初めてではなかなか苦心も多いでしょうネ。

     掃立は5月25日のようですが、遅いようですね。

     桑の関係ですか。

  私  そうです。今年は25日ですが、例年よりは

     3、4日早いのです。

  陛下 そうですか、それだけ山形の方は寒いわけですね。

 

 階上のご視察を終えられ、階下に降りられるとき階段が急で、誠に恐れ入りますと申し上げると「少し急のようですね。毎日桑を持って数回上り下りされることは随分ご苦労ですね。」との有難いお言葉にただただ感激し、感涙を覚えるばかりでありました。

 

 

【おらだの会】丸川氏の受け答えに、実直さの中にも探求心にあふれた地方人の姿が浮かび上がる。また昭和47年頃に長井線の廃止の声が出された際に「わがうちなる長井線」と題するエッセーを書いた詩人・芳賀秀次郎氏も蚕桑出身である。写真は皇后陛下がこの時訪れた五十川の大桑の樹の視察時のもの。(「写真で見る致芳」より)

 「わがうちなる長井線」はこちらから

   → わがうちなる長井線 その1:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

広田泉写真展を開催します

  • 広田泉写真展を開催します

 広田泉さんは昨年3月、旅立たれました。フラワー長井線全線開通100周年にあたる今年、広田さんへの感謝の気持ちを込めて123の会の皆さんと共に写真展を開催します。展示するのは2021年1月にパリの個展で展示された作品が中心となります。皆様のご来場を心よりお待ちしております。

 なお開場時間等をお間違えのないようご注意ください。

2023.04.04:orada3:コメント(3):[イベント情報]

新年度作業がスタート

  • 新年度作業がスタート
  • 新年度作業がスタート

 4月2日、いよいよ新年度がスタートしました。おらだの会でも雪囲いの撤去とホームや花壇の杉っ葉等の除去作業、そして桜銘板の設置作業を行いました。花壇に飛んできた杉っ葉を取り除くのは結構大変です。会員がみっちり1時間かかりました。

 

 桜の開花状況ですが、染井吉野はピンクがかってきて一部咲き始めています。十月桜は満開で、例年になく存在感を発揮しています。その他の品種はまだ蕾です。駅周辺には啓翁桜の圃場もあって、一斉に咲き始めるような気配です。

2023.04.03:orada3:コメント(0):[イベント情報]

第17話 蚕は死して名を残す その1 (蚕桑駅)

  • 第17話 蚕は死して名を残す その1 (蚕桑駅)

 白兎駅から5分ほどすると蚕桑駅が見えて来る。蚕桑村は高玉村、横田尻村、山口村が合併して明治22年(1889年)に誕生した。合併にあたって多くの村が大きな町村名や地勢的な特徴を名前に付けたのに対して、蚕桑村は村の繁栄を養蚕業にかけるとして名付けたといわれる。明治30年10月27日の米澤新聞に、「西郡の長井町の有志者また宮内町の有力者と連合し、長井町より今泉を経て宮内町を通過し赤湯停車場に出でんとする計画ありという。」との記事が掲載されている。この当時の地域産業は養蚕と製糸業であり、長井線を実現できたのもこの産業基盤があったからであろう。蚕桑村は長井町や宮内町と比べて資本力はなかったかもしれないが、技術的な中核を担っていたのではないかと思えるのである。今、蚕桑村の当時の面影を伝えるのは蚕桑駅の南端にある「枝垂桑」の古木だけかもしれない。けれども村の名前にその名を残した。虎は死して皮を残し、蚕は死して名を残す。かなり長くなりますが、蚕桑村の200年の物語を読んでみてください。

 

 上杉藩の時代の天保3年(1832年)に書かれた「背曝(せなかあぶり)」によると下長井通り(今の長井市寺泉から草岡以北北鮎貝の辺りまで)は青苧や漆等の奨励作物ではなく、皆桑畑にしたという。当時の反当り収益で養蚕が田の2倍以上あったというのである。しかも蚕桑地区一帯は、川原前と呼ばれる砂地で風通しがよく人家からも離れていたのでハエの幼虫(ウジ虫)の害がなかったのである。ウジ虫は蛹のまま人家の屋敷周辺で越冬し、4令から5令頃食べさせる桑に産卵し、桑を通して蚕の体内に侵入する恐るべき害虫である。川原前の桑には立地条件からウジ虫の害が少なく歩桑(ブグワ)と呼ばれて普通桑よりも高価に取引されたのである。蚕桑地区は蚕種と養蚕の2本の柱をもって継続的に発展してきたのである。

 

 慶応2年(1866年)、武州血洗島の渋沢惣五郎という人が長井町横山孫助氏方に来て、田尻方面の蚕種が極めて良好との評価をして各地に販売してから、蚕種製造の本場として知られるようになったのである。渋沢氏から販売の依頼を受けた丸川儀兵エは明治4年、横浜に出張しイタリア人と面接し黄金種の品種製造を依頼されるなど、国際的なレベルの蚕種技術者と評価されている。さらに翌5年にはイタリア人デロロー氏が来朝し、渋沢氏に伴われ丸川氏宅を訪れ高玉、荒砥、五十川、長井の各蚕種製造所を視察している。まさに蚕種技術の最先端の地ではあるまいか。

 

 

【おらだの会】本稿は「白鷹町史(下巻)」、「蚕桑の郷土誌」を参考にしています。

       30年前の蚕桑駅はこちらからどうぞ

        → 30年前の蚕桑駅 ①:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

全線開通100周年の幟旗登場!

  • 全線開通100周年の幟旗登場!

 4月22日の長井線全線開業100周年に向けて、長井線の全駅に記念の幟(のぼり)旗が掲揚されている。旗は2種類あって、写真の渋い感じの色合いのものと明るいものがある。さて1か月後にはどんなイベントが準備されているのだろうか、楽しみにしたいものです。

 

 それにしてもその1年前の4月23日に左沢線が全線開通し、4月22日に長井線が荒砥まで開通している。当時の人たちにとっては、「次は左荒線だ!」と盛り上がったことでしょう。おらだの会のブログで、長井線の建設に係る歴史をまとめていましたが、この機会に改めて長井線の建設にかけた先人の思いを確認してみたいものです。

 

 

 → 軽鉄人物伝:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2023.03.30:orada3:コメント(0):[イベント情報]