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2回目参上

  • 2回目参上

「2回目参上!!」と書いてくれたのは、デハニ金(?)さん。昨年の12月においでになったようです。今回は205D→210Dとあるので、下り9時37分で降りて、10時38分の上りに乗って行かれたのでしょうか。「もっちぃ駅長ありがとうー」のメッセージが嬉しいですね。また素敵な絵を見せに来てください。

 

 → 35分の仕事か?:おらだの会 (samidare.jp)

2023.07.18:orada3:コメント(0):[駅ノートイラスト館]

汽車通してました

5月20日 18:16

フラワー長井線長井⇔荒砥を乗り、長井駅から当駅に。かつて高校生の時に利用していた米坂線犬川駅の駅舎にそっくりで、大変なつかしく感動しました。いつまでも当「羽前成田駅」の駅舎を後世に残して欲しいものです。(shima)

 

5月21日

長井駅から総宮神社に参拝してからこの駅まで歩いて来ました。とても風情がある駅だと思いました。(大阪府yy)

 

5月28日

五十川出身です。久しぶりに見に来ました。なつかしいです。汽車通もしました。今日はあいにくの曇り日です。また見に来たいと思います。

 

2023.07.16:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

祖母に会えたような気持になって

  • 祖母に会えたような気持になって

5月15日

雨の日に来ました。とても歴史ある小さくも大きな駅に包まれて幸せな時間を過ごしました。これからも長生きしてください。また会いに来ます。100歳おめでとう。(46歳上山市民)

 

5月15日

羽前成田駅、大正11年に建てられたとのこと、初めて知りました。私の祖母も生きていたら100歳になっていたのかなぁと、祖母にも会えたような気持になってうれしくなりました。また家族みんなでフラワー長井線に乗りたいと思います。楽しい時間を有難うございます。(チュリン)

 

5月18日(木)

とても落ち着く駅です。いつも素通りしていたので立ち寄りました。

 

 

 

【おらだの会】アジサイも見頃です。

2023.07.14:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

第20話 百年後のこの景色を その2(荒砥駅)

  • 第20話 百年後のこの景色を その2(荒砥駅)

 請願書には、私たちの憤懣をぶち上げた。衆議院で採択された我々の請願書にも「荒砥まで延長する」ことを明記していた。そして鉄道会議並びに鉄道院の告示にも「長井荒砥間」とあるではないか。翻って明治44年に、延長請願のために鉄道院に出頭陳情の際、当時の理事の三氏は「財政上の都合により目下は延長至難なるも、将来適当の時機において見るべく。而して線路は、その筋において30余年間、最上川出水表により左岸は一般に低地にしてかつ川流水源の関係上、水害多く殊に鮎貝村付近は洪水地域と認めあるをもって、線路には不適当なるのみならず停車場設置は到底不可能なり。これに反し右岸の東部は最上川水面より約十メートル以上高い。害の患いなきのみならず、後日、西村山郡の平野線に連絡上、至大の便利あるをもって、鉄道線路は無論右岸たるべく、停車場また荒砥町に設置せらるべきは何ら疑うべきにあらず。」と言明したではないか。我々の記憶には今も鮮明に残っているのだと。

 

 私はこの請願書を提出した4か月後に町長の職を辞した。この段において、荒砥駅までの延伸を実現するためのリーダーは、地元出身者でなければならないと思ったからだ。後年の地元の皆さんや歴史家からは「よそから来た町長は、何もできなかった」とのそしりを受けるかもしれない。けれどもそれは甘んじて受けなければならないであろう。

 

 町中の大通りには青杉の緑門が建てられ、軽便鉄道の開通と共に営業を始めた2軒の運送会社が、酒樽を山と積んだ大八車を、ねじり鉢巻きの若衆に引かせて練り歩いている。「大正の年も 十二の春浅く 桜にさきがけ開通の 荒砥の駅も・・」との歌が、祝賀パレードの人々によって歌われ、祝賀気分をいやが上にもわき上がらせた。町中の歓声を聞きながら、本間は改めて三番坂からの景色を眺めた。そこには荒砥の繁栄の基礎を築いてくれた最上川の流れがあった。そして未来への希望をつなぐ長井線のレールが朝陽を浴びて光っていた。本間は思った。この景色を守るのはここに生まれ、ここで育った人たちなのだ。すべてはここに生きる人々の手にあるのだと。そして思った。十年後、百年後のこの景色を見てみたいものだと。

 

 

 

【おらだの会】今年の2月13日に赤湯駅を出発したエッセーも、終着駅に到着いたしました。長らくお付き合いくださり誠にありがとうございました。長井線の旅で、これからもそれぞれの物語が紡がれていくことを期待したいものです。(本稿は荒砥町誌、白鷹町史、山形鉄道㈱、ふるさと資料館、荒砥コミュニティセンター様からの資料をもとに創作しました。)

 

 

第20話 百年後のこの景色を  その1(荒砥駅)

  • 第20話 百年後のこの景色を  その1(荒砥駅)
  • 第20話 百年後のこの景色を  その1(荒砥駅)

 全線開通100周年を記念して書き始めたこのシリーズ。開通記念日の4月22日には間に合わなかったが、ようやく終点の荒砥駅に到着しました。どうぞご覧ください。

 

    

 大正12年4月22日朝、本間猪吉は三番坂の上にいた。一番列車が鮎貝駅を出て、黒煙を噴き上げながら最上川橋梁をわたって来るのが見えた。町のあちこちから聞こえて来る「万歳、万歳」の歓声を聞きながら、4年前のことを思いだした。本間は荒砥町の出身ではなかったが、11代町長大友惣八に乞われて助役に就任した。しかしながら大友町長が就任後わずか3か月後の大正4年12月27日に急遽辞任すると、臨時代理の職に就き大正6年8月4日には町長職に就くこととなったのである。

 

 その頃の町政の最大の課題は長井線の延伸問題であった。荒砥町における鉄道建設運動は明治44年頃から始まった。軽便鉄道長井線の計画が浮上すると同時に、梨郷から伊佐沢に抜けて荒砥までの実現を目指すものとして陳情活動を展開した。しかし「赤湯から長井まで」という鉄道院の計画は変わらなかったことから、ルートを問わずに荒砥までの延伸を要望することとなった。そして、本間が町長に就任してまもなく、大正6年12月の鉄道会議において、長井荒砥間の延長が大正8年から3か年間に敷設すべく決議されたのである。地元民にとっては10年来の悲願が達成されたとして、歓喜の声で迎えられたものだった。そして大正8年3月、鉄道院告示第2号をもって、新庄建設事務所の所管事務として「長井荒砥間」が加えられることになった。

 

 大正8年4月、いよいよ測量が開始されることになった。がしかし、実際に測量が行われたのは最上川の左岸であった。当初は、これは単に比較のための調査であろうと信じていたが、5月12日、臨時に招集された郡内町村長会で、西置賜郡長清水徳太郎氏から重大な発表がなされた。それは、長井線の延長ルートは最上川の左岸に決定したようだ、というのである。さらに鉄道院の松本建設局長が、「鉄道院の当初の計画では最上川右岸で計画していたが、今回、政治決着により左岸を通ることになった。ついては野川と最上川に2つの橋梁を建設する予算はないので、鮎貝駅を終点として、駅名を荒砥駅とせざるを得ない。」と語ったというのである。清水郡長は「この際、郡内町村一致して鮎貝より右岸の荒砥市街地まで、更に延長の請願をしなければならない。」と言明されたのでした。これを聞いた時は、愕然となった。今までの先人の努力が水泡に帰すと思った。役場に帰ってすぐに、鉄道院総裁への請願書の作成に取り掛かったのだった。