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弁慶の供養塔④

  • 弁慶の供養塔④

 ところが翌年になっても、その次の年になっても何の消息もなくなってしまったのでありました。そうしておりますうち、いよいよ3年目の文治5年(1189年)の夏、奥州衣川において泰衡が突然の夜討ちによって、義経主従をことごとく討死にしてしまったという。引き続いて頼朝の奥州征伐となって、泰衡はじめ平泉の藤原氏がことごとく滅亡してしまったという噂が、こんな田舎にまで伝わって来たのでありました。

 

【補足】 衣川は、「弁慶の仁王立ち」の逸話が残る場所ですが、前九年の役(1060年頃)に源義家と卯の花姫の父とされる安倍貞任が戦った場所でもあります。安倍家滅亡後100年を経て、奥州の覇王藤原家が東征の軍によって滅亡させられたのでした。

 

弁慶の供養塔⑤

  • 弁慶の供養塔⑤

  平泉の騒乱を聞いた娘は、ある日のこと、主人の前に出でまして、今まで包んで語らなかった我が身の素性を打ち明かすのでした。「彼の時、御当家様に泊めていただいた山伏の一人で、背のずっと高い髭の多い頭(かしら)分のような態度をしておったのは、西塔武蔵坊弁慶と言う者で、妾(わらわ)の父でありましたし、付近の家に泊まった人々は主君義経夫婦などの人達でありました。」と。残らず語ったうえで、「その証拠がこれでございます。」と言うて、一つの日の丸の軍扇を出し、「これが妾の父が義経公の家来になった時、その証として拝領した軍扇で、非常に大切に肌身離さず所持していた物ですが、別れの時に親の形見にと渡していったのであります。」と言うて、示したのでありました。

 

【蛇足】写真は「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)の図ですが、牛若丸が持っている扇に日の丸が見えます。弁慶が娘に渡した軍扇なのかもしれません。

三淵有志会と酒を飲んでます

  • 三淵有志会と酒を飲んでます
  • 三淵有志会と酒を飲んでます

平野の桜町公民館で、三渕有志会の人と酒を飲んでます。この人達は、三淵渓谷を20年も前に探検し、さらに墨田川で有名な「Eボート」で木地山ダム湖で遊びまくったおじさん達なのです。成田駅でしばらく振りでお会いして、餅つき会の酒飲みに呼ばれたのでした。「成田駅と三淵渓谷を繋いで遊びたいね、飲みたいね!」と盛り上がりました。 

2020.02.15:orada3:コメント(0):[イベント情報]

弁慶の供養塔⑥

  • 弁慶の供養塔⑥

 これを聞いた主人をはじめその家の人々は、大いに驚きかつたいそう喜んだ。そのような身分の人の娘では、一層粗末にできないと言って可愛いがり、大切に養育をした。成人した娘は非常に容貌の美しい、その上、心持の優しい賢い女であった。するとちょうど、その家の相続人息子に嫁取り頃で立派な若い者があって、二人は相思恋愛の仲となったのでありました。親達もたいそう喜んで、早速夫婦にしてくれた。夫婦は仲睦ましく、男女数多の子に恵まれたという。

 

 さてその後、弁慶の娘夫婦の世代となってからの事である。孝心深い彼ら夫婦は、亡父弁慶と同行の人々の霊を弔い慰めるために、供養塔を建立して大法要をしたのでありました。里人は、名高い人々を祭祀した御塔であるので、「塔ッ様(とっつぁま)」と名付けて崇敬したのでありました。現在も成田字塔の腰に、鎌倉時代の姿そのままの七重層の御塔が残っているのであります。

 

 

【補 足】写真は、今も残る塔様です。(写真はフィルターをかけています。)

弁慶の供養塔⑦

  • 弁慶の供養塔⑦

 その後、子孫大いに繁盛し、分家別家と栄えていった。現今、成田における鈴木氏一門はことごとくその子孫であるということであります。一方義経が泊った家は、森の塔の上の古口名兵衛の祖先宅であったという。なお一説には、昔の鈴木平左衛門兼行という人は、同行山伏七人のうちの一人で、やはり義経の家来で彼の娘に保護者として付け残された人であったとも言われております。

 

 果たして娘に形見として残していった日の丸の軍扇は、その由緒書と系図の一巻と共に、その家の重宝となって相伝していったのであります。さらに江戸時代になってからは、家の惣領筋の者が伝えるべきものとなり、回りまわって吉川家に伝えられることになったといいます。しかしながら歳月は流れ、今日では軍扇の存在を確認することはできなくなったとのことです。地区最大の歴史秘話を証言する軍扇は、まさに歴史の闇の中に消えてしまったのでありました。

 

注:写真はもちろんイメージです。