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弁慶の供養塔③

  • 弁慶の供養塔③

 その晩、同行していた二人の女性のうち若い方の女が、時候の障りで患い、どっと床についたまま起き上がることができなくなった。仕方がないから、「しばらく逗留させていただきたい。」と願ったのでありました。するとその家の人達は、非常に心の優しい方々であったので、色々に親切に手に手を尽くして看病してくれた。そのおかげで、娘は程なく病気は治ったが、まだまだ皆の衆と一緒に道中されるような身体には回復してはいないので、「そういつまでも大勢で厄介になっていることもできません。」とて、羽黒参詣が済んでの帰りまで、娘を泊めて貰うように懇々願った所が、その家では快く引き受けて、「決してご心配下さるな。」と言うてくれました。一同の山伏は大そう喜んで、今まで世話になったお礼を萬々申し述べて出立したのでありました。

 

弁慶の供養塔④

  • 弁慶の供養塔④

 ところが翌年になっても、その次の年になっても何の消息もなくなってしまったのでありました。そうしておりますうち、いよいよ3年目の文治5年(1189年)の夏、奥州衣川において泰衡が突然の夜討ちによって、義経主従をことごとく討死にしてしまったという。引き続いて頼朝の奥州征伐となって、泰衡はじめ平泉の藤原氏がことごとく滅亡してしまったという噂が、こんな田舎にまで伝わって来たのでありました。

 

【補足】 衣川は、「弁慶の仁王立ち」の逸話が残る場所ですが、前九年の役(1060年頃)に源義家と卯の花姫の父とされる安倍貞任が戦った場所でもあります。安倍家滅亡後100年を経て、奥州の覇王藤原家が東征の軍によって滅亡させられたのでした。

 

弁慶の供養塔⑤

  • 弁慶の供養塔⑤

  平泉の騒乱を聞いた娘は、ある日のこと、主人の前に出でまして、今まで包んで語らなかった我が身の素性を打ち明かすのでした。「彼の時、御当家様に泊めていただいた山伏の一人で、背のずっと高い髭の多い頭(かしら)分のような態度をしておったのは、西塔武蔵坊弁慶と言う者で、妾(わらわ)の父でありましたし、付近の家に泊まった人々は主君義経夫婦などの人達でありました。」と。残らず語ったうえで、「その証拠がこれでございます。」と言うて、一つの日の丸の軍扇を出し、「これが妾の父が義経公の家来になった時、その証として拝領した軍扇で、非常に大切に肌身離さず所持していた物ですが、別れの時に親の形見にと渡していったのであります。」と言うて、示したのでありました。

 

【蛇足】写真は「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)の図ですが、牛若丸が持っている扇に日の丸が見えます。弁慶が娘に渡した軍扇なのかもしれません。

三淵有志会と酒を飲んでます

  • 三淵有志会と酒を飲んでます
  • 三淵有志会と酒を飲んでます

平野の桜町公民館で、三渕有志会の人と酒を飲んでます。この人達は、三淵渓谷を20年も前に探検し、さらに墨田川で有名な「Eボート」で木地山ダム湖で遊びまくったおじさん達なのです。成田駅でしばらく振りでお会いして、餅つき会の酒飲みに呼ばれたのでした。「成田駅と三淵渓谷を繋いで遊びたいね、飲みたいね!」と盛り上がりました。 

2020.02.15:orada3:コメント(0):[イベント情報]

弁慶の供養塔⑥

  • 弁慶の供養塔⑥

 これを聞いた主人をはじめその家の人々は、大いに驚きかつたいそう喜んだ。そのような身分の人の娘では、一層粗末にできないと言って可愛いがり、大切に養育をした。成人した娘は非常に容貌の美しい、その上、心持の優しい賢い女であった。するとちょうど、その家の相続人息子に嫁取り頃で立派な若い者があって、二人は相思恋愛の仲となったのでありました。親達もたいそう喜んで、早速夫婦にしてくれた。夫婦は仲睦ましく、男女数多の子に恵まれたという。

 

 さてその後、弁慶の娘夫婦の世代となってからの事である。孝心深い彼ら夫婦は、亡父弁慶と同行の人々の霊を弔い慰めるために、供養塔を建立して大法要をしたのでありました。里人は、名高い人々を祭祀した御塔であるので、「塔ッ様(とっつぁま)」と名付けて崇敬したのでありました。現在も成田字塔の腰に、鎌倉時代の姿そのままの七重層の御塔が残っているのであります。

 

 

【補 足】写真は、今も残る塔様です。(写真はフィルターをかけています。)