成田村伝説 №3.わさやの怪盗(2)
昔成田には7軒の金持ちがおった。佐々木宇右衛門、佐々木忠右衛門、佐々木太左衛門、横山仁右衛門、飯澤半右エ門、飯沢半十郎、山口惣右衛門の7軒である。頃は享和(1,801~1,804年)から文化、文政、文久、元治(1,864~1,865年)のあたりまでの5,60年の間である。(ちなみに米沢藩の藩主は第9代上杉治憲(鷹山)が1785年に退位した後の10代治広、11代斉定、12代斉憲の御代にあたる。明治元年(1868年)を間近に控えた頃のことである。)
古老の話によると、成田の財閥の全盛時代には長井町の商業資本は殆んど成田から出ていたという。小出、宮、成田の財力を瓢箪に例え、瓢箪を横にして頭の小さいところは小出、中のくびれているのは宮、尻の大きいところは成田であるという。
【写真:「東講商人鑑」(長井市史第二巻近世編 564貢より)】
写真は安政2年(1855年)に刊行された「東講商人鑑」。長井市の28人の中に、成田の佐々木宇右衛門、忠右衛門、太左衛門、小西屋仁右衛門、そして国主御用茶を製する五十川の平吹市之丞が掲載されている。また右下の略図には成田八幡宮が描かれ、「成田村佐々木卯右衛門の庭前に大木の栗あり 凡六百年余也 廻り三丈余あるべし 今に枯ずして其勢さかんなり」と記されている。佐々木家と栗の木については改めて紹介しましょう。
成田村伝説 №3.わさやの怪盗(3)
この7軒のうち金持ちの筆頭は何と言っても佐々木家であった。佐々木家の先祖は近江の国の大名の時代から新発田を経て大判小判を背負って来たと言われ、ここに土着した時から既に大金持ちと言われた。
その頃、金を貸していた宮、小出の人達を毎年秋の「えびす講」に招待した。そして一番多く貸しているお得意様を正座に据えていたが、それはいつも宮の長沼惣右衛門だったという。その頃惣右衛門は大きな太物屋で年千両の利息を上げていたということである。利息が千両というと、少なくとも一万両の金を常時貸していたことになる。今の米価に換算すると7億円という大金になる。それは惣右衛門一人に対する貸金であって、招待した一座の人達に貸した貸金の合計はどんなになったろうか。目の回るような話である。もっともこうした多額の金貸しは佐々木家だけであって、他家はそれほどではなかった。
【写真:「佐々木家ご本陣見取り図」(致芳史談会編「御本陳(陣)記録」39貢より)】
長井市史(第二巻近世編 743貢)によれば、佐々木家は民家としては唯一、藩主上杉家の本陣(大名の宿泊所として指定された家)に定められていたという。「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編)」には「藩主が14回立ち寄られ、そのうち8回お泊りになったと御本陣記録に残っています」とある。







