車寄せの駅名看板が掲げられている箇所では、両駅の特徴をとても良く見ることができます。成田駅では凝ったデザインの「持ち送り」を使用しています。それに対して西大塚駅では、持ち送りの形跡はなく漆喰(?)がアート風に塗りこめられています。漆喰風の壁が、いつ頃作られたものか不明ですが、思いついた方の芸術的・職人的センスに感動してしまいます。何でも鑑定団の中島誠之助風に言うと「いやぁ、両駅とも良い仕事してますね、ぜひお大事になすってください!」
車寄せ 切妻vs半切妻
建物の入り口部分の出っ張りを車寄せあるいはポーチと呼ぶそうですが、西大塚駅と羽前成田駅の車寄せの屋根型の違いに、何人の人が気づくでしょうか。写真のとおり、西大塚駅が切妻であるのに対して、成田駅は半切妻といわれる型式です。切妻が純和風に見えるのに対して、半切妻は何となくハイカラっぽく見えませんか。
1986年(昭和61年)9月に撮影された荒砥駅の写真を見ると、荒砥駅も半切妻となっています。可能性としては、成田駅から荒砥までは半切妻の型式で建てられたのではないかと思われます。西大塚駅が開業してから8年後に開業した成田駅。この8年間の建築意匠の変化を見ていきたいものです。
煙突管が語るのもの
西大塚駅は屋根の上に煙突は残っていますが、煙突管は残っていません。成田駅の事務室内には、屋根に伸びる煙突管と正面の壁に伸びるスチール製の煙突管が残っています。成田駅に残っている写真から見ると1989年(平成元年)10月の山形鉄道開業時には屋根の煙突はなくなっており、事務室のストーブが完全になくなったのは無人化となった1997年(平成9年)以降の事と思われます。
さて、西大塚駅の煙突はなぜ屋根の上に残ったのか。そして成田駅の煙突管は何故残されたのか。「処分費がなかった」とか「解体するのが大変だったから」とは思いたくない。国鉄に憧れ、蒸気機関車に憧れた鉄道マンたちが、自分たちが働いていた場所、生きていた時代の証として残しておきたかったのではなかろうか。いや、きっとそうに違いない。残された煙突管には、蒸気機関車の力強い黒煙への郷愁と未来に向けて絶えることなき鉄路への希望が託されているのかもしれない。(などと妄想することができるのも、煙突管が残っていることのお陰である。)
【写真は「成田駅のストーブを囲んで(1956年1月)」 宮崎正義氏提供】
西大塚駅 煙突は残った
おらだの会では、羽前成田駅の魅力と見どころをブログ「木造駅舎の魅力」と冊子「羽前成田駅の魅力」で紹介してきました。今回は、共に国の登録有形文化財に認定されている西大塚駅と比較しながら、それぞれの駅舎の見どころを紹介していきたいと思います。
西大塚駅は1914年(大正3年)11月に開業し、羽前成田駅は8年後の1922年(大正11年)12月に開業しました。この8年という年月とその後現在までの約100年の年月が、両駅にどのような変貌を強いたのでしょうか。素人が勝手に紐解きます。
第1回目は、屋根に注目です。正面全景の写真を見てください。西大塚駅にあって、成田駅にないものな~んだ? 幾つかあるのですが、最初の答えは「煙突」です。しかしながら写真を注意して見ると、両駅共に(閉じられている)煙突窓があるので、この窓が作られた時点で屋根の上の煙突は必要ないはずです。なのに何故、西大塚駅では屋根の上の煙突を残したのか? 次回は、建屋に入って煙突遺構を探ってみます。