8月29日
風鈴がすばらしい。雰囲気 GООD!
9月4日
自動車と車両の接触事故によって羽前成田駅に来られなかったので、今日リベンジして来ました。風鈴と虫たちの音色とこの駅舎の雰囲気で心がやすらぎました。
【おらだの会】9月に入って稲穂も色づいてきました。風鈴もそろそろお役御免となりそうです。
今行われている「駅舎と96(きゅうろく)展」で、昭和30年から山形鉄道が開業した昭和64年までの駅舎の写真が展示されている。上の写真は1986年(昭和61年)9月に撮影されたものである。大きな駅名板と破損した屋根瓦、そして真新しいサッシ窓が印象的である。
しかしそれ以上に注目して欲しいのが、正面入り口に並べられたプランターである。私たちの先輩達は、発泡スチロールを魚屋などから貰ってきて、ペンキを塗って、花を植えて、堂々と駅の正面に飾ったのである。
今は亡き先輩方が頑張ってくれたから駅舎が残り、おらだの会もあるのだと思う。「『さよなら列車』がつなぐもの」と共に、「『木造駅舎』がつなぐもの」があるのだと、つくづくと感じる。
この服は2年前、山形市からおいでになったKさんが持って来てくれたもので、国鉄時代の機関士の制服である。Kさんは昭和27年に中学校を卒業後、東京の会社に就職したが間もなくその会社が倒産。「絶対つぶれない会社で働きたい」と国鉄に就職することを希望して、鉄道専門学校であった岩倉高校に入学。昭和33年に卒業後、昭和34年に正式に国鉄職員となった。昭和39年に念願の機関士免許を取得し、長井線でも運転したという。
kさんはその後の気動車や電気機関車への革新に伴い講習と試験を重ねて、昭和42年に気動車運転士、昭和53年には電車運転士となった。その間昭和49年から52年までは労働組合の専従職員に推され、国鉄改革闘争の中で停職や減給処分を繰り返されたという。
岩倉高校では夏休みに鉄道関係のアルバイトが必須であったが、アルバイト先の上司が現在の奥さんの父親であったという。すでに国鉄時代の物を殆んど整理してしまったというが、この服には最後まで残しておきたい思い出があったのではなかろうか。
【おらだの会】この服は現在、『駅舎と96展』の会場に展示しています。
9月3日から「駅舎と96(きゅうろく)展」がスタートした。会場では、「さよならSL」のヘッドマークをつけた59634号と北九州市の九州鉄道記念館に展示されている写真が展示されている。九州の写真を提供してくれたのは北九州市出身の長井市地域おこし協力隊・高橋秀孝さんです。
偶然にも元国鉄職員で59634号も運転していたというSさんが駅茶においでになった。鉄道記念館の写真を見て、「こんなにピカピカにしてもらうのは、お召列車を牽く時ぐらいなもんだ。こんなに大切にされているのを見せてもらって、こっちまで嬉しくなるなぁ。」と、当時の想い出を語ってくれました。
人々の記憶から消えていたものが、歴史のうねりの中で再び浮かび上がって来ることもある。Sさん達が共に汗を流した機関車が、今も九州の地で人々に愛されながら生きている。「ごくろうさんよ」という時、それは故郷を走った機関車と共に、それに関わった全ての人々への感謝の言葉なのかもしれない。
『さよなら列車』は九州と山形を結び、今と昔とを繋いでくれるものだった。
鉄道記念館の写真の経過はこちらからどうぞ → 「さよならSL」との再会:おらだの会 (samidare.jp)