HOME > 記事一覧

(8)高橋鯉屋さんも創業100年

  • (8)高橋鯉屋さんも創業100年

 停車場の位置が決定したのは大正9年の春だった。成田の希望通りにはならなかったし勿論献金はしなかった。(略) 駅が確定すると直ちに用地買収に入った。買収価格は時価の2倍という高値だったし、代替地は幾らでもあったので割合スムーズに進んだ。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より

 

 いよいよ敷設工事が始められます。そこで登場するのが高橋辰弥さんで、現在の高橋鯉屋さんの曽祖父にあたる方です。辰弥さんは長井線の工事作業員を束ねる仕事をしていたそうです。線路近くの田んぼの土を線路の土盛りに利用したため、土地に大きな穴があいてしまい、「はてこの窪地をどうするべ」として始めたのが鯉の養殖だったそうです。

 

 髙橋家の先祖は、江戸中期に北前船が縁で京都から移住し、成田久保町で料理屋相馬屋を開業したといいます。辰弥さんの時代には成田本宿で開明館という料理屋を営み、鉄道敷設と同時に鯉の養殖を行うようになったそうです。羽前成田駅も100年、高橋鯉屋さんも創業100年です。

 

 

【おらだの会】 鯉の養殖は、米沢藩主上杉鷹山公が福島県相馬から稚魚を取り寄せ、米沢城のお堀で育てたのが始まりといわれます。中国の故事にも出て来る「鯉」料理は、祝いの席には欠かせないソウルフード。鯉甘煮品評会で2年連続最高賞(水産庁長官賞)を授賞している高橋鯉屋さんですが、その中でも「骨まで美味しい鯉のやわらか煮」が特にお薦めです。

2022.01.31:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

駅コンやったら

  • 駅コンやったら

令和4年1月

〇成田駅舎冬寒いです。ストーブ置いたらいいんじゃないでしょうか!? 

 成田駅には何回もお世話になってます。今年も宜しくお願いしま~す。(by めぐみ)

 

〇成田駅で婚活でもやって欲しいです。        

 

 

【おらだの会】停車場ノートもようやく新年を迎えることになりました。今年も宜しくお願いします。

 駅コンやって駅舎で結婚式をあげて、そのまま新婚旅行というのも面白そうですね。列車は「永遠の愛」を運ぶというサクラ号だったりして。(中国ドラマ「10年3月30日」より)

 

 

 中国ドラマの記事はこちらからどうぞ ⇒  中国ドラマがビデオに:おらだの会 (samidare.jp)

2022.01.29:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

(7)羽前成田駅は五十川駅に?

 前回、成田区民は成田の中央部(現在の成田第3踏切の南部)に建設するよう陳情していたことを紹介した。けれども次に紹介する請願書では、長井村の駅は五十川区に建設するよう要望されているのである。成田区と五十川区の確執として役場焼討事件(明治34年)があったが、駅の建設時も綱引きがあったのであろうか。ちょっと気になるところである。

 

 

請  願  書

 長井軽便鉄道ノ延長ハ、地方民多クノ宿望ニ候処、主務官殿亦其必然ヲ認メラレ、今般長井町ヨリ長井村、蚕桑村、鮎貝村ヲ経テ、荒砥町迄延長スヘク、目下測量中ニ有之、近々其実現ヲ見ルベク、承知仕候ニ付テハ、其中下長井村大字五十川、蚕桑村大字高玉、鮎貝村大字鮎貝ノ三ヶ所ニ停車場ヲ御設置相成度請願仕候。

 

 理  由

一、長井村大字五十川ハ長井線ヲ距ル約2哩(マイル)、長井村ノ中央ニシテ、有名ナル米琉絣産物ノ中心ナリ。西ハ西根村ニ通スル要路控ヘ、東ハ最上川右岸ニ達スル渡船場ヲ有シ、肝要ノ位置ニアルヲ以テ當区適當ノ地点ニ停車場ヲ御設置相成度候。

一、蚕桑村大字高玉ハ  ・・・略・・・

一、鮎貝村大字鮎貝ハ  ・・・略・・・

 

 右沿道関係部落ヲ代表シ請願仕候

 

軽便鉄道敷設請願(雪国の春5 原敬一「置賜軽便鉄道資料」より抜粋)

2022.01.27:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(6)陳情に長井紬 ~ 成田駅の建設場所は

  • (6)陳情に長井紬 ~ 成田駅の建設場所は

 大正8年の秋頃だったが3線の中の中央部の線に決定したのだった。線路が決定すると停車場の位置問題がにわかにクローズアップされてきた。それまでノンビリしていた地域の人達も停車場のこととなると、あわてて論議し始めた。区長はじめ村会議員、区会議員等有力者が会合して成田区民の意思を統一してその筋に陳情しようということになり、早速福蔵院を会場に区民総会を開いたのである。大部分の区民が出席したらしく広い会場も溢れる程の盛会であった。この時の区長は安部秀弥氏でなかったかと思われるが確たる記憶はない。司会者が経過報告をして、成田として駅はどの位置を希望するかを諮ったのである。種々論議されたが結局成田中央部即ち赤間伴右エ門の南部と満場一致で決定した。

 

 更に希望通りに設置された場合、区有金2千円を鉄道院に献納すること、又陳情経費其の他の経費も区有金より支出することを決議したのである。この2千円は停車場敷地1町歩の買収価格であった。この時の主導者は誰であったかはよく判らないが、当時村長に就任していた佐々木覚次郎氏が影の人として活躍していた。この佐々木氏に頼まれて、私が成田地区の地図に希望の停車場の位置と県道よりの取付道路を赤インキで書いたのだった。それを持って第1回の陳情団(2名位か)が秋田鉄道管理局に行った。2回目の陳情に行ったのは、8年の暮れ12月頃でなかったか、雪が5、6寸あったのを覚えている。加藤五左エ門、横山辰蔵、長谷部甚作の3名で長井紬をお土産に持って行った。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より

 

 

【おらだの会】駅の建設にあたって資金を提供するのは昔も今も同じようであるが、成田区として支出するとしたのは興味深い。これについては次回、別の史料を紹介したい。

 陳情のお土産に長井紬を持参しているのは、当地域での養蚕と紬の生産が特筆すべきものであったことを示すものであろう。写真は全国の養蚕振興のために長井村を訪れた貞明皇后(大正天皇の后)が、昭和25年五十川にある上杉鷹山公御手植えの桑の木を視察された際のものである。

(写真で見る致芳のあゆみ:平成14年 致芳地区文化振興会発行 より)

2022.01.25:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(5)延長線測量始まる ~ 鮎貝村ハ長井線ノ終点タルベク

  • (5)延長線測量始まる ~ 鮎貝村ハ長井線ノ終点タルベク

 大正8年4月愈々線路の測量が始められた。ところが測量は1線ではなく3線同時に始められたのである。最も西側は西表の田園の真中を通り、中は現在の線路のところ、それから東側の線は遍照寺東から野川を渡り、塔の越に入り福蔵院の東、片桐氏宅の前から八百刈を突き抜けて窪前から五十川に通ったのだった。東側の線は殆んど桑園だったので測量の障碍になる桑の木は切り払われた。

 この3本の線を測量したと言うことは、最も建設費の少なく、地域住民の利用価値の高いところという配慮から比較線とかいって3本の線を検討したのであった。この3線の予定線については、地域住民はどの線を希望するというような積極的な意見もなく鉄道院の決定次第というような空気だった。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より

 

 

【おらだの会】大正8年4月の測量開始は、左岸ルートに決定されたことの証左であった。この事実に対して成田区民にはあまり大きな動揺はなかったようである。けれどもそれは現在の長井線が生まれるか否かの分岐点であった。その年の5月、西置賜郡長 清水徳太郎は郡内の町村長会の席上で「延長ルートは左岸でその終点は鮎貝駅となることは殆んど決定である。荒砥までの延長を実現すべく郡内団結せよ!」と訴えたのでした。詳しくは次の記事をご覧ください。 ⇒ 軽鉄人物伝③ 荒砥町6人衆(その4):山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

【請願書資料提供:ふるさと資料館(南陽市宮内)】

2022.01.23:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]