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(12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

  • (12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

 加藤酒屋は成田駅前のあんびん屋と松林堂菓子舗の間にあった。写真は大正2年10月26日の米澤新聞に掲載された加藤酒屋の広告である。赤湯~梨郷間が開業した記念号に掲載されたものであり、紙面の約半分を占める程の大きさである。特約店である旭屋が宮内町の事業者であったこともあるのだろうが、当時の加藤酒屋の事業規模を示すものと考えられる。

 

 加藤五左エ門は大正11年に鉄道が開通すると駅前に支店を建て菊地秀蔵氏と佐々木素助(そうすけ)氏の二人に住宅を建てて住まわせ、2年後に劇場栄楽館を自ら社長となって建設したのである。菊地秀蔵氏の住宅は(現在の長谷部本店近くに)総2階建てで料理屋をしていた。佐々木素助氏の一部を酒屋の運送業の事務所にしていた。(沙石集より抜粋;カッコ部分は挿入

 

 成田には3軒の酒屋があったと言われている。「沙石集 成田の豪商たち」の中では、中の酒屋(佐々木宇右衛門の分家 佐々木太左エ門)、下の酒屋(飯澤半右エ門の分家 飯沢半十郎)を紹介しているが上の酒屋の記述はなく、加藤酒屋が上の酒屋なのかは確認できない。また横山吉治氏の調査(沙石集 資料「組直り面付けと伍什組制度について」)によれば、加藤五左エ門は成田舘地区に居住しているが、宮摂取院の壇家とされている。ふるさとめぐり致芳では「ままの上酒造が酒屋の店を開く」とあることから、当時の長井町との関連も伺えるが、残念ながらこれ以上の確認はできない。

 

 さて加藤五左エ門は「長年長井村第一の資産家を誇っていた」とされるが、その後間もなく没落することになる。鉄道開通に合わせた好景気も大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌、さらには世界恐慌と続く大波に地方も翻弄されることになる。

 

2022.02.10:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

北海道も頑張って!

  • 北海道も頑張って!

北海道が大雪に見舞われ、二日間列車が動かないというニュースが流れている。

 

長井線も4年前に1週間ほど運休となった。

この年は除雪車が故障したうえに試運転車両が脱線する事故も重なってしまった。

線路は雪に覆われ、汽笛が聞こえない日々が続いた。

コロナではないが、日常の有難さを教えられたものだった。

 

立春になったとはいえ油断は禁物だ。

北海道の皆さんへ、そして山形鉄道の皆さんへエールを送りたい。

頑張ってください!

 

【おらだの会】写真は2018年1月27日の成田駅。

2022.02.08:orada3:コメント(0):[停車場風景]

(11)松林堂菓子舗と酬恩碑

  • (11)松林堂菓子舗と酬恩碑

 先に松林堂菓子舗として紹介した孫田家は、草岡の孫田氏から慶應3年(1867年)に分家し、現在5代目となる。3代目は昭和7、8年頃に菓子商を開業した。紅白ラクガンや味噌饅頭が有名だったが、戦時下で砂糖が手に入らなくなった昭和14、5年頃に廃業せざるを得なかった。その頃の職人の一人は、現在白鷹町にあるあんちん堂菓子舗のお爺さんであったといいます。

 

 2代目の八百次氏は長井線の線路工事や道路工事、開田工事等の土木工事をして多くの人夫を使っていたそうである。あまり仕事のない時代で働けるのは有難いと大変喜ばれ、人夫達が感謝の気持ちを込めて昭和4年に酬恩碑を建立したのだそうです。揮毫者は衆議院銀の西方利馬氏でした。実は西方利馬氏は長井線との縁が深い人だったのです。

 

 大正11年秋の鉄道会議に、次年度に着手する路線として現在の米坂線の今泉・坂町間が提案され、決定されました。この計画では米坂線が今泉経由となってしまうため、長井の住民は長井駅を経由するよう陳情したのでした。南陽市中川出身の西方氏は大正13年の衆議院選挙で当選し、長井駅経由に変更すべくまさに粉骨砕身の努力をされたのでした。けれども「長井への起点の変更は米沢市の繁栄を奪うもの」とする米沢市や東置賜郡さらには今泉地区の住民の反対運動も厳しく、実現には至らなかったのでした。西方氏に揮毫を受けた八百次氏もまた人々の幸せを願って走り回った人間だったのではなかろうか。

 

 今泉経由の経過についてはこちらから

⇒ 長井線リポート(17)  白川橋梁からの眺め:おらだの会 (samidare.jp)

 

【参考資料】ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年発行/写真も)、致芳の屋号と家紋(致芳郷土史会編:平成28年)、長井を変えた横山八次局長(横山八次・五十嵐俊栄著:平成15年発行)

2022.02.06:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(10)成田駅前の発展

  • (10)成田駅前の発展

 前回、成田駅開業当時の状況を紹介しましたが、その後成田駅前は急激に活気づいていきます。写真の地図は「成田駅前の発展」としてふるさとめぐり致芳に掲載されたもので、当会のブログ(2018年5月12日:停車場の追憶写真帳)でもとりあげていたものです。

 

 この地図では年次が明らかでないのが残念ですが、先の地図と比較すると宇右エ門曲がりがなくなり、真っ直ぐな道路になっています。山口五左エ門家が移動し、その土地に農協や郵便局が建てられたようです。あんびん屋は現在の宮崎家、松林堂菓子舗は孫田家の先祖が商売したものだそうで、駅の開業を機に地元の人達が果敢に起業していたことが伺えます。

 

 街は時代と共に変貌を余儀なくされるものであり、その記憶も途絶えやすいものです。けれどもこの小さな界隈で生まれ、消えて行ったものの中には、地元民としても忘れてはいけないものがあるような気がします。長井線や成田駅に関わった先人の足跡を幾つか紹介していきたいと思います。

 

「停車場の追憶写真帳」はこちらから ⇒ 停車場の追憶写真帳:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

 

【参考資料】致芳の屋号と家紋(致芳郷土史会編:平成28年)、ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年発行)

2022.02.04:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(9)駅前道路は宇右エ門曲がり

  • (9)駅前道路は宇右エ門曲がり

 駅から県道までの取付道路は町村で造らねばならなかった。駅から役場までは直線で来たけれど、そこには山口五左エ門氏の住宅があって直線には出来なかった。それで役場入口の道路を拡幅して県道に接続した。停車場道路としては例のない曲がった道路になってしまった。

 

 事情はあったにしても、村当局は村民から非難されたのは当然のことであった。宇右エ門曲り等と悪口を言う人もあったが、当時(佐々木)宇右エ門氏は村議会で絶大な実力者で、この曲がった道路も彼の意向によるものだったとささやかれていた。

 

 道路工事は用地買収等に手間取り、工事が遅れて開通式直前までかかって漸く完成した。その年12月になってからは天気が悪く毎日の雨で砂利は敷いても泥んこ道だった。それでも落成式当日は役場前に芸者踊り等の余興もあり大変な賑わいであった。

致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より(写真も)

 

 

 

【おらだの会】上の写真にある駐在所は明治21年8月1日に成田村下宿東に配置された、と長井市史3巻(昭和57年発行)にある。また日進堂は「大正4年に菓子商を営む」と記録があるとのこと。成田駅開業の数年後、駅前の風景は大きく変貌することになるのですが、それは次回ご紹介します。

 

 日進堂のお菓子が食べたくて千葉から来ましたという方がいました。

こちらからどうぞ ⇒ 木造駅舎がお菓子になった:おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.02:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]