4月8日
○こんな素晴らしい木造駅舎が残っているなんて奇跡です。感動あるのみ。いつまでも残ることを祈ります。(千葉さん)
○我がフラワー長井線は永久に不滅です。(なくなりませんように。)
【おらだの会】「我が巨人軍は~」のフレーズで有名な長嶋茂雄氏の引退セレモニーは昭和49年(1974年)10月14日。このシーンを知っている人はどれぐらいいるのだろう。嗚呼 昭和は遠くなりにける哉。
4月3日
転勤で引っ越して来て最寄り駅が羽前成田駅になりました。電車好きの子どもは、フラワー長井線もこのレトロな駅も気にいったようです。駅と一体の長井駅もいいけど、ここの羽前成田駅いいですね!
4月3日
今日は友と楽しく長井の街を散策し、羽前成田駅を見に来ました。長井に来て6月で丸7年を迎えます。色々ありましたが、なんとか仕事を継続しています。それは自分だけの力でなく、周りの皆さんの支えがあったからです。羽前成田駅の情緒的雰囲気に感銘を受けました。Thank you everybody!!
【おらだの会】超レトロ風の100周年記念看板が、駅協力会の手によって設置されています。
駅協力会の資料によれば、平成元年(1989年)1月31日に白兎区で白兎駅早期建設を長井市長に陳情し、平成元年6月26日には新潟陸運局より白兎駅の新設が認可されたとある。これに合わせて駅協力会の名称も同年6月27日に、「羽前成田駅・白兎駅協力会」に変更している。白兎駅は平成元年12月16日に竣工、開業した。駐輪場やトイレなどは、平成3年1月から3月に、市の補助金を得て駅協力会が304万円で整備したという。成田駅周辺の環境整備に続いて大変な事業を果たしたものである。
ホームだけの小さな駅であるが、白兎(しろうさぎ)駅という全国唯一の珍しい名前と山形県のビューポイントにも認定されている葉山連峰の眺めの良さから、訪れる人も多い。また鉄道写真家・中井精也氏が「日本の原風景の里山を象徴するローカル線」として山形鉄道を紹介した際の巻頭写真に白兎駅を掲載している。このような評価を、30年前の先輩方は予想できたでしょうか。地元から出されたという当時の陳情書をみてみたいものだ。
そしてこの小さな駅には、心温まるドラマがあったのです。白兎駅から通学していた女子生徒が卒業の時に駅の管理をしてくれた老夫婦に・・。どうぞこちらをご覧ください。
→ 停車場ノート33 おじいちゃんありがとう:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)
【おらだの会】写真は白兎駅竣工式の様子。(「写真で見る致芳のあゆみ」より)
「風と大地と猿の写真展」においでになった方から大変なことを教えてもらった。山形市十日町の第2公園に展示されている機関車は長井線を走った機関車だ、というのである。しかもその写真が「長井線の今・昔」という冊子に出ているという。さっそく駅茶にあったその冊子を見てみると、確かに同じ68691号のプレートが確認できた。
鬼滅の刃の無限列車が86型をモデルにしていて、同型車が山形市内に展示されていることは紹介していたが、まさかその車両が長井線の旅客車を牽引していたとは驚きである。長井線の最後の蒸気機関車59634号が北九州市で保管されていて、さらに最後の旅客車を牽引した68691号が山形市に残っている。なんとも不思議な思いである。
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→ 鬼滅のSLは96の前任車:おらだの会 (samidare.jp)
→ (19)旅客列車が気動車に:おらだの会 (samidare.jp)
【おらだの会】「長井線の今・昔」は成田駅協力会の事務局長を永く勤められた小口昭さんが平成26年に発行されたもので、モノクロ写真は同書からコピーさせていただいた。また現在の写真は上山市のYさんに提供いただいたものです。
山形鉄道が開業した昭和63年12月、コミュニティ助成事業を導入して駅周辺の環境整備に取り組むことになった。この事業の採択にあたっては長井市の尽力があったのであろうが、駅協力会を中心としたそれまでの活動が評価されたことが十分予測される。助成申請書には次のように書かれている。
「今まで駅というものは、列車に乗り降りするだけの場所という考え方が根強く、鉄道利用者が年々減少している傾向にある現在、駅前はさびれ、過疎化の玄関口とまでいわれていますが、駅は本来人の集まる場所であり、地域活性化の拠点として有効に活用すれば、地域住民のふれあいの場として活気をとりもどすことも可能であり、ひいては地域住民の足としての鉄道の斜陽化防止にも役立つと考えられます。」
「過疎化の玄関口」から「活性化の拠点」へという考え方は、現在でも通用する考え方であると思う。ローカル線の持つ魅力をとおして、新しい形のコミュニティーの場としての位置づけもできるのでないか。先輩方の慧眼には今更ながら敬服する。