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映画「いしゃ先生」に映ってました

  • 映画「いしゃ先生」に映ってました

令和4年1月

 山形市から来ました。成田は私のルーツです。父の生家があり幼少の頃からよく連れてきてもらい遊びました。父母、祖父母、叔父叔母たくさんの身内がこの駅を利用していたんでしょう。戦時中はこの駅から出征したんだろうね。

 

 今もそのまま残るこの成田駅。今では「風情がある」という表現になってしまうのでしょうがいつまでも大切にしてもらいたい。ちなみにこの間「いしゃ先生」という西川町の女医さんの映画でこの駅が映っていました。平山あや主演で間沢駅の場面でした。フラワー長井線、今度乗ってみたいです。 (by Aki)

 

 

 当時の記事はこちらからどうぞ

「いしゃ先生」を観て来ました:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.14:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

(13)夢を引き継ぐ 佐々木素助

  • (13)夢を引き継ぐ 佐々木素助

 長井村一の資産家と評された加藤五左エ門が破産の道をたどることになった原因の一つに成田製糸工場があった。

 

 成田製糸工場は、長井市境町(現在の栄町)の竹名清助が成田駅南(赤間伴右エ門の南)に計画し、昭和元年の秋から土地買収が始められたものである。翌2年5月頃、成田駅に工場建設に係る大量の材木が代金引き換えで送られて来たが、当時駅前に支店を出して運送業をしていた加藤五左エ門がその代金3万円を弁償することとなった。

 その後加藤は次第に成田製糸工場の経営に参加することになり泥沼に足を踏み入れることになった。長年長井村第一の資産家を誇っていたが、之から数年後に破産することになるのである。昭和2年には金融恐慌あり、昭和3~4年までは何とか操業していたが、昭和4年秋の台風のため工場が倒壊し操業不能となった。昭和6年10月頃債権者による建物競売となり、加藤酒屋も破産することとなった。  

(沙石集 「幻の成田製糸工場」より)

 

 加藤氏の運送店の事務を担当していた佐々木素助氏は、その後自らが代表となり佐々木運送店を創業した。さらに出資者を募り成田劇場栄楽館を再建し、昭和30年まで運営したのである。成田駅においでになったご婦人がその当時を振り返って、「栄楽館で映画を見て、青栄そばやで支那そばを食って帰るのが最高の楽しみだった。」と語ってくれたのを思い出す。佐々木素助氏は加藤氏の夢を引き継ぎ、今も人々の記憶に残る場所を提供してくれていたのだった。

 

 成田駅界隈の歴史を辿って思うことがある。それは時代の荒波に翻弄されながらも新たな事業に果敢に挑戦していった先人の気概である。その気概は市内で最も早く結成された成田駅協力会に、そして環境整備活動を展開した駅前いきいきクラブの先輩方に引き継がれていたのではないだろうかと。鉢巻きに法被姿の佐々木氏(写真左から2番目)がとても眩しく見える。

 

 

 

【写真提供:宮崎正義氏/撮影年月不詳】

2022.02.12:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

  • (12)長井村一の資産家 加藤五左エ門

 加藤酒屋は成田駅前のあんびん屋と松林堂菓子舗の間にあった。写真は大正2年10月26日の米澤新聞に掲載された加藤酒屋の広告である。赤湯~梨郷間が開業した記念号に掲載されたものであり、紙面の約半分を占める程の大きさである。特約店である旭屋が宮内町の事業者であったこともあるのだろうが、当時の加藤酒屋の事業規模を示すものと考えられる。

 

 加藤五左エ門は大正11年に鉄道が開通すると駅前に支店を建て菊地秀蔵氏と佐々木素助(そうすけ)氏の二人に住宅を建てて住まわせ、2年後に劇場栄楽館を自ら社長となって建設したのである。菊地秀蔵氏の住宅は(現在の長谷部本店近くに)総2階建てで料理屋をしていた。佐々木素助氏の一部を酒屋の運送業の事務所にしていた。(沙石集より抜粋;カッコ部分は挿入

 

 成田には3軒の酒屋があったと言われている。「沙石集 成田の豪商たち」の中では、中の酒屋(佐々木宇右衛門の分家 佐々木太左エ門)、下の酒屋(飯澤半右エ門の分家 飯沢半十郎)を紹介しているが上の酒屋の記述はなく、加藤酒屋が上の酒屋なのかは確認できない。また横山吉治氏の調査(沙石集 資料「組直り面付けと伍什組制度について」)によれば、加藤五左エ門は成田舘地区に居住しているが、宮摂取院の壇家とされている。ふるさとめぐり致芳では「ままの上酒造が酒屋の店を開く」とあることから、当時の長井町との関連も伺えるが、残念ながらこれ以上の確認はできない。

 

 さて加藤五左エ門は「長年長井村第一の資産家を誇っていた」とされるが、その後間もなく没落することになる。鉄道開通に合わせた好景気も大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌、さらには世界恐慌と続く大波に地方も翻弄されることになる。

 

2022.02.10:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

北海道も頑張って!

  • 北海道も頑張って!

北海道が大雪に見舞われ、二日間列車が動かないというニュースが流れている。

 

長井線も4年前に1週間ほど運休となった。

この年は除雪車が故障したうえに試運転車両が脱線する事故も重なってしまった。

線路は雪に覆われ、汽笛が聞こえない日々が続いた。

コロナではないが、日常の有難さを教えられたものだった。

 

立春になったとはいえ油断は禁物だ。

北海道の皆さんへ、そして山形鉄道の皆さんへエールを送りたい。

頑張ってください!

 

【おらだの会】写真は2018年1月27日の成田駅。

2022.02.08:orada3:コメント(0):[停車場風景]

(11)松林堂菓子舗と酬恩碑

  • (11)松林堂菓子舗と酬恩碑

 先に松林堂菓子舗として紹介した孫田家は、草岡の孫田氏から慶應3年(1867年)に分家し、現在5代目となる。3代目は昭和7、8年頃に菓子商を開業した。紅白ラクガンや味噌饅頭が有名だったが、戦時下で砂糖が手に入らなくなった昭和14、5年頃に廃業せざるを得なかった。その頃の職人の一人は、現在白鷹町にあるあんちん堂菓子舗のお爺さんであったといいます。

 

 2代目の八百次氏は長井線の線路工事や道路工事、開田工事等の土木工事をして多くの人夫を使っていたそうである。あまり仕事のない時代で働けるのは有難いと大変喜ばれ、人夫達が感謝の気持ちを込めて昭和4年に酬恩碑を建立したのだそうです。揮毫者は衆議院銀の西方利馬氏でした。実は西方利馬氏は長井線との縁が深い人だったのです。

 

 大正11年秋の鉄道会議に、次年度に着手する路線として現在の米坂線の今泉・坂町間が提案され、決定されました。この計画では米坂線が今泉経由となってしまうため、長井の住民は長井駅を経由するよう陳情したのでした。南陽市中川出身の西方氏は大正13年の衆議院選挙で当選し、長井駅経由に変更すべくまさに粉骨砕身の努力をされたのでした。けれども「長井への起点の変更は米沢市の繁栄を奪うもの」とする米沢市や東置賜郡さらには今泉地区の住民の反対運動も厳しく、実現には至らなかったのでした。西方氏に揮毫を受けた八百次氏もまた人々の幸せを願って走り回った人間だったのではなかろうか。

 

 今泉経由の経過についてはこちらから

⇒ 長井線リポート(17)  白川橋梁からの眺め:おらだの会 (samidare.jp)

 

【参考資料】ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年発行/写真も)、致芳の屋号と家紋(致芳郷土史会編:平成28年)、長井を変えた横山八次局長(横山八次・五十嵐俊栄著:平成15年発行)

2022.02.06:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]