長井村一の資産家と評された加藤五左エ門が破産の道をたどることになった原因の一つに成田製糸工場があった。
成田製糸工場は、長井市境町(現在の栄町)の竹名清助が成田駅南(赤間伴右エ門の南)に計画し、昭和元年の秋から土地買収が始められたものである。翌2年5月頃、成田駅に工場建設に係る大量の材木が代金引き換えで送られて来たが、当時駅前に支店を出して運送業をしていた加藤五左エ門がその代金3万円を弁償することとなった。
その後加藤は次第に成田製糸工場の経営に参加することになり泥沼に足を踏み入れることになった。長年長井村第一の資産家を誇っていたが、之から数年後に破産することになるのである。昭和2年には金融恐慌あり、昭和3~4年までは何とか操業していたが、昭和4年秋の台風のため工場が倒壊し操業不能となった。昭和6年10月頃債権者による建物競売となり、加藤酒屋も破産することとなった。
(沙石集 「幻の成田製糸工場」より)
加藤氏の運送店の事務を担当していた佐々木素助氏は、その後自らが代表となり佐々木運送店を創業した。さらに出資者を募り成田劇場栄楽館を再建し、昭和30年まで運営したのである。成田駅においでになったご婦人がその当時を振り返って、「栄楽館で映画を見て、青栄そばやで支那そばを食って帰るのが最高の楽しみだった。」と語ってくれたのを思い出す。佐々木素助氏は加藤氏の夢を引き継ぎ、今も人々の記憶に残る場所を提供してくれていたのだった。
成田駅界隈の歴史を辿って思うことがある。それは時代の荒波に翻弄されながらも新たな事業に果敢に挑戦していった先人の気概である。その気概は市内で最も早く結成された成田駅協力会に、そして環境整備活動を展開した駅前いきいきクラブの先輩方に引き継がれていたのではないだろうかと。鉢巻きに法被姿の佐々木氏(写真左から2番目)がとても眩しく見える。
【写真提供:宮崎正義氏/撮影年月不詳】