長井駅周辺が記載されている古い地図が残っている。一枚は大正3年の地図(上の写真)であり、それには「長井ステーション」と付記されている。もう一枚は昭和9年の地図であり、それには「長井停車場」と付記されている。
→ 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 14:長井市観光ポータルサイト | 水と緑と花のまち ようこそ、やまがた長井の旅へ
地方には法律用語の変更がやや遅れて浸透してきたということだろうか。けれども、陸蒸気の一声は、地方人にとっても文明開化、新時代の到来を告げるものであった。二つのエッセー文から当時の人々の心情をみてみたい。
//源次はたまげて「まっちゃ早ぐ見ろ、見ろ。もみどが歩いて来たでないがえ」と言うと、側にいた年上の寅次郎が「軍艦が陸さ上がって来たでないべが」と言った。(略)。
「人力車ど汽車なて、俺らんだの乗り物でないべなえ」と源次が情けなさそうに言うど「これはしたり、あんまりせわしいごど語んねで、まっちょまず。うんとかしぇでお前だどご乗せんぞ」とまっちゃが空威張りして見せた。//(寺嶋芳子著「西山のへつり」より)
///ぼくの故郷白鷹町は、昔の名を蚕桑村といった。(略)。この村に鉄道が開通したのは大正十二年である。ぼくは小学校の二年生であった。遠い記憶を辿ってみても、汽車が通るということは、ふるさとの村にとって、ほとんど革命的な出来事であった。遥か遠い物に思われていた「都会」の匂いや、「近代」というまばゆいものが、汽笛のひびきと共に突如として村にやってくるのだ。/// (芳賀秀次郎著「わがうちなる長井線」より)



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