長井線は大正2年に赤湯から梨郷駅までが開通し、その翌年は長井まで。さらに9年後に荒砥まで全線開通した。それぞれの町で開通記念ハガキなどが制作され、当時の様子が記録されているが、機関車が写っているものは少ない。そんな中で宮内町が制作した記念カードには、梨郷と宮内停車場を走る機関車の姿が見える貴重なものであるが、残念ながらその姿を正確に把握することは難しい。
→ 宮内駅開業記念カードその2:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)
そしてようやく「開通当時の長井線機関車」と題する写真に巡り合うことができた。それが白鷹町史(昭和52年発行)に掲載されていた上の写真である。鉄道に詳しい方のお話では600型と呼ばれる機関車で、イギリスのナスミス・ウイルソン社製で、1887年(明治20年)から1904年(明治37年)までに78両が輸入され、日本各地で主力機関車として活躍したそうである。
この写真を見ると、地元の詩人であり教育者でもあった芳賀秀次郎さんが書いた「わがうちなる長井線」の一文を想い起こす。
「その頃の汽車は、いかにも小さな箱型で、ぼくらはこれをマッチ箱と呼んでいた。これには本線を走っている立派なボギー車との比較による、やや軽侮の感じもないわけではなかった。しかし、このマッチ箱という呼名には、もっと素朴であたたかい親愛の気持ちがこめられていた。」
列車を眺める子どもの姿は、フラワー長井線となった今でも見かけることができる。昔も今も、列車は子供たちにとっては心弾むものであり、マッチ箱のような車両に深い親愛の気持ちを込めて手を振っているのだろう。車掌さんが笑顔で応えてくれる姿も変わらぬものであろう。
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