葉山伝説で疑問が二つあった。一つは、砂金で作られた仏像が発見されたことの真偽である。調べてみると「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編:平成9年)」には「山女川屋敷と板碑」の項で、次のような記述があった。また砂金が草岡川や最上川などから流れ着いたことなども考えられ、伝説が生まれる素地はあったと思ってよいのではないだろうか。
//白兎の小字山女川(あけびがわ)という所に、鉱山師である梅津市左衛門の屋敷跡があった。葉山や臼ケ沢(白鷹町)の金山が盛んな頃、金山大尽(大金持ち)となった。あまりぜいたくしたのでとがめられ、家財を取り上げられ追放されたという。//
そして第2の疑問は、白兎と白狐が登場する中で何故、白兎が地名として残ったのかという点である。これについて私は、葉山の存在から考えるべきでないかと思っている。四方を山に囲まれた盆地に住む者にとって、特に西山は特別な存在である。陽が落ちる際の景色はまるで光背のようであり、いわゆる西方浄土の存在を確信させるかのようである。しかしそのひと時が過ぎると辺りは闇に包まれ、山々の漆黒の姿が浮かび上がるのである。その光景から崇めるとすれば保食命ではなく、月読命ではないだろうか。第6話で恵法律師が山頂に行って羽黒宮を建立した後に、荒廃していた月山宮を立て直したとあるのは、古人が原始宗教的に月読命を崇めていたことを示すものではないだろうか。また江戸時代の「白兎在家」は、神聖なる白兎の毛皮を献上することで忠誠の意を表したと考えられないだろうか。
これらはすべて推測でしかない。ただ地元の人々は、地名を白兎とすることで、何か大切なものを残そうとしたことは間違いないと思われる。そして白兎の伝説を生んだ葉山の山容を、平成元年に「長井の心」として表現した人がいる。長井市の名誉市民である彫刻家長沼孝三氏である。芸術家の心をとらえて離れなかったものが、この景色にはあるのだろう。ふるさとの山はありがたきかな。
【おらだの会】写真は(一財)文教の杜ながい提供。長沼孝三氏については、こちらから
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