第14話 学び舎と駅舎と (あやめ公園駅)

  • 第14話 学び舎と駅舎と (あやめ公園駅)

 あやめ公園駅は、平成14年(2002年)6月に長井工業高校の生徒とPTAの要望に応えて、市民団体の募金活動による寄付金で開業した駅です。待合室は内外装すべて同校の生徒をはじめとして学校職員、PTA、OB等の手作りにより建設されました。長井工業高校は、「長工生よ地域を潤す源流となれ」をモットーに、有為の若者を輩出し、地域産業を支えてきた学校です。

 同校にはかつて、昼間部の他に夜間部があり、私の叔父さんも夜間部の定時制に通った一人でした。昭和30年代から日本は高度経済成長に突入し、地方の次男、三男は集団就職列車に乗って郷里を離れていきました。家に残った長男は家業を継ぐか、工場で働くことになる。その頃は給料も安く生活は苦しかった。家計を助け貧しさから脱却するためには資格を取る必要があった。けれども高校を卒業していないとその試験を受けることもできなかった。朝8時から夕方5時まで工場で働き、6時から夜の10時まで高校の授業を受けた。家にはほとんど眠るために帰ったようなものだったそうです。4年間の課程を終えて卒業証書を社長に見せた時、「頑張ったな。おめでとう」と何度も肩を叩いてくれた。あの時のうれしさは、今でもはっきりと覚えているという。

 その定時制課程も昭和57年(1982年)3月で、20年の歴史に幕を閉じることになりました。その時の後援会長は吉田製作所㈱社長の吉田功さんだった。会長自身も定時制課程の卒業生でした。会長は、最後の式典に坂本九さんに来てもらいたくて電話をしたそうだ。当時、坂本九さんは「見上げてごらん夜の星を」を歌い、同名の映画では夜学生を演じていたのである。定時制課程に通う生徒たちは、夜空を見上げてはこの歌に励まされたそうだ。そんな思いを知る会長は、最後の卒業生8人を励ます会にぜひ来て欲しいとお願いしたのです。この申し出に九ちゃんは、ノーギャラでOKしてくれました。前の晩、上山のホテルで打ち合わせをした際に、九ちゃんの様々な苦労話を聞いたそうです。「今回はよく頑張って私を呼んでくれましたね。」と慰労された時は、実行委員一同思わずうれし泣きしたそうです。会長さんは、今度はちゃんとギャラを払って九ちゃんを呼びたいと心に決めたそうです。でも、3年後の昭和60年(1985年)8月12日、九ちゃんは日航機墜落事故で亡くなったのでした。

 

 その後、校舎の老朽化などを背景に同校の廃校が検討課題に上がります。その際も卒業生や地元企業者が中心になって同盟会を結成して、学校の存続と校舎の建て替えを実現したのでした。それは平成14年、あやめ公園駅が開業したと同じ年のことです。この駅には、長井のものづくに情熱を注いだ、人情味豊かな人々の思いが込められているように思う。

 

 

【おらだの会】写真提供:山形鉄道㈱

2023.03.18:orada3:[長井線読切りエッセー]

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