やがてUさんにも召集令状が届きました。入営の前日、駅に顔を見せたUさんは、私に一枚の絵を渡してこう言いました。「私が戦地から帰って来るまでこれを預かってくれないだろうか。もし無事に帰って来たその時は・・・・。今から母と親戚で最後の晩餐です。明日は宜しくお願いします。」と。そしていつもの柔和な笑顔を残して帰って行ったのでした。私は「どうかご無事で」と言うのが精一杯でした。
翌日、いつもと同じように壮行の儀式が始まりました。Uさんの家では、昨夜はどんな会話が交わされたのでしょうか。Uさんは最後までお袋さんと目を合わせることはせず、遠くの空に視線を向けていました。そしてひと際大きな汽笛と長い黒煙を吐き出して、列車はホームを出て行ったのでした。
戦況は刻々と悪化の一途をたどっていきました。奥羽線で働いていた友人からは、兵隊を移動させる軍臨(軍用臨時列車)に初めて乗務した時は、客車の窓は鎧戸が全部降ろされ、兵士の姿が全く見えないようになっていて、みだりに会話することも許されなかったと教えられました。また車掌として乗務していた時に空襲に合い、機銃掃射に遭遇したとも聞きました。戦争の恐怖が身近に迫っていました。この地に居て「死の恐怖」と戦うことが、遠く離れた人を思うことにつながるような気がしたものです。
やがて終戦となり兵隊さんが戦地から帰って来ました。私は駅長の許しを得て、受け取ったキリストの肖像画を日直室に飾りました。そして毎朝、祈りを捧げるのが日課となっていました。けれども、Uさんが帰って来ることはありませんでした。しばらくして私は縁あってこの町を離れることになりました。十数年ぶりで訪れた駅舎は、昔のままの姿で迎えてくれました。ガラス窓の向こうに、Uさんや共に働いていた仲間の姿が蘇ってきました。優しい笑顔のキリスト画を想い出しながら、あの時代、私たちは確かにここで生きていたんだと思うのでした。
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